2011年1月9日日曜日

財政出動論2 なぜ財政出動論?

関連: 3大恐慌期金融政策 1財政の有効性 「重不況の経済学 公共事業
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《概要》大きな不況《重不況》からの回復対策としての財政出動を主張するという立場を表明するとともに、財政出動に有効性がないのではないかと私にしばらく考えさせた問題について、あらためて整理しなおします。・・・・

 「財政出動」には、様々な問題があります。こうした問題を、書く立場を明確にして(つまり「財政出動派」の立場に立つことを明らかにした上で)、これから考えていこうと思います。立場を明確にした方がわかりやすいと思うからです。

 拙著「重不況の経済学」の中でも財政出動に関する問題を扱い、財政出動の問題や意義を書いていましたが、どちらかと言えば中立的な立場で書いていますので、わかりにくいかなと思います。
 もともと私はオールドケイジアン的な財政出動派ではありました。しかし、『重不況の経済学』での体系的な検討の結論でも、あらためて財政出動の有効性に到達しました。
 それを、これから、わかりやすく整理していこうと思います。

   その前置きとして、以下では「財政出動論1」で取り上げた問題の、私にとっての意味を少し補足しておきます。

   田中秀臣・安達誠司『平成大停滞と昭和恐慌』は、(7年前当時)オールドケインジアン的な考えの私に、「やはり財政出動には効果がないのか」と感じ、宗旨替えせざるを得ないと考えさせた本でした。

   中でも、私にとって、もっとも明快な説得力があったのが、このブログの『財政出動論1』でも取り上げた、同書88ページの図4−4(米大恐慌時の財政支出とCPI上昇率の関係を示すグラフ)でした。

   この図では、物価が財政出動(ここでは欠損額の12か月累計)よりも先行して上昇していますから、これは「財政出動が原因で景気が回復したという財政出動論」の因果関係を否定するものに見えました。以来、私は、「財政出動の有効性は低く、金融政策が重要だと考えるしかない」と思ってきたのです。

   つまり、2003年刊の古い本なのですが、私が『財政出動派』に転換するためには、この本の主張の克服は避けて通れないものだったわけです。
        注)もっとも、スコット・サムナー (Scott Sumner 米ベントレー大学教授)は、第2次世
             大戦前の米国の消費者物価指数(CPI) は使い物にならない・・・まともな経済
             史家は生産者物価指数(WPI)を使うと言っています。 23.10.6追加修正
             ・・・このリンク先ページ下段のサムナーによるコメント2箇所参照

   そこで『財政出動論1』では、このグラフが「支出額ベースで財政出動を捉えている点に問題がある」との解釈を示しました。「支出」と『発注』は異なるのです。企業は、発注を受けると、その契約総額を前提に行動しますから、発注段階で、実体経済に大きなインパクトがあります。ところが「財政出動」を「支出」ベースで捉えると、それが把握できません。支出は、工事などの出来高に応じて支払われ、あるいは完成後に支払われるからです。支出は常に遅れるのです。(参照:「財政出動論1」)

  「支出」を見るだけでは、財政出動の効果を把握することはできず、契約額つまり発注額ベースでも見る必要があります。特に1933年には、ゴールデンゲートブリッジの着工をはじめ大規模な発注が重なりました(大規模な発注があっても、当初は、政府の支出は小さいのです)。

   なお、このほかに、このグラフにはデータの取り扱いに誤りがあります。正しいグラフは、下図のとおりです。この図で 赤い線が正しいグラフです。1936年6月以降の1年間については、元のグラフは誤っています
   原因は、1936年6月の欠損額が突出して高いために、(推測ですが)安達先生がおそらくそれを「データの誤り」と考え、その値をゼロと置いたためだと考えられます。(このグラフ値の計算方法は明示されていませんが、毎月過去12か月分の政府の月別欠損額の合計値をその月の値としてプロットすると、《1936年6月からの1年間を除いて》安達先生のグラフと一致します。また、1936年6月のデータをゼロと置くと安達先生のグラフと完全に一致します。)

   しかし、この6月の大きな欠損のデータは誤りではなく正しいのです。政府の歳入、歳出のデータとも整合性があります。この年には、実は、退役軍人に対する年金が一時金として一括支給されたのです(巨額)。この退役軍人の年金一時金問題は、生活が困窮している退役軍人たちが1932年にワシントンに向けて要求のための行進を行い(Bonus Armyと呼ばれました)、それを規制しようとする政府軍が発砲して流血事件が起きたために注目を浴びました・・・ウィキペディアなどを参照ください。

   当然、これは政治問題化し、紆余曲折を経て最終的に支給案が議会を通過します。当時の大統領フランクリン・ルーズベルトは拒否権を発動しましたが、議会が1936年1月に再度、拒否権を覆す圧倒的多数の議決を行い、支給が確定しました。総額で十数億ドル(二十億ドルに近い)で、これが年度末にあたる6月(当時の連邦政府の会計年度は前年7月〜当年6月)に一括支給されたのです。

  6月の連邦政府の支出額の異常な突出分(前後の月の支出が4〜6億ドル程度なのに、6月のみ 23億ドル台)の原因はこれだったわけです。6月単月の歳入は5億ドル余りでしたので、この月は単月で 18億ドルという(月単位では)巨額の欠損月となりました。

   ルーズベルトはこうした巨額の支給に最後まで反対でしたので、これをニューディール政策とは言えませんが、財政出動の影響を見る場合には、当然除外されるべきものではありません