2014年11月23日日曜日

New Economic Thinking 10 マネーの二つの側面からみた日本国債のパラドックス

新しい経済学10 〜マネーの二つの側面:◎取引の媒介物としてのマネーと◎資産としてのマネーの区分の意義と日本国債のパラドックス
(関連)→ New Economic Thinking  2

改訂:270701 中段の『不足制約原理」の説明の注を充実し、そのほかに末尾に注を一つ追加した外、各所で読みやすく字句を修正 270628 段少し後ろ『不足制約原理』に関する注等を挿入 261204 4の(3)に補足説明のための注を追加 261203 4の(4)に補足説明のための注を追加

    日本政府が巨額の国債を発行し続け、その債務残高は世界最高水準を更新し続けている。しかし、日本の長期金利(通常、10年物新発国債の流通金利)は世界最低水準を続けている。このように巨額の債務が存在し、それが日々拡大し続けているにもかかわらず、日本の長期金利が低いことはパラドックスと言える。拙著『日本国債のパラドックスと財政出動の経済学』(新評論、2013)は、この問題の解明を目的としたものである(そのメカニズムを説明したのがNew Economic Thinking  2である)。
    このページでは、この「日本国債のパラドックス」と「マネー」の関係を、フェリックス・マーティンの『21世紀の貨幣論』(東洋経済新報社、2014年10月刊)を材料に、改めて整理してみよう。

 巨額の政府債務残高を持つ日本の長期金利が世界最低水準というパラドックス

    このパラドックスが普遍的な問題であることは、最近の日本銀行の大規模な量的・質的緩和政策すなわち異次元緩和下での、原田泰氏の最近の発言で理解できよう。
    すなわち、消費税再増税の延期と衆議院の解散後の長期金利の動きを受けた、原田泰氏は「増税先送り この程度で金利『暴騰』ですか?」(2014年11月19日の3ページ目で、このパラドックスを解明すべきことを次のように訴えている
        「根本問題を考えて欲しい
            消費税増税を延期したら大変なことになると言っていた人々の予測は外れた。
        不思議なのは、外れても外れても同じ人が同じことを言い続けていることだ。
            さらに私が分からないのは、政府債務の対GDP比が200%以上になっても、日
         本の長期金利が上がらず、レベルとして0.5%前後でしかないことである。外し
         た人が特に経済学者の場合には特に、当たらない予測よりも、この根本問題を
         解くことに精力を傾けていただきたい。学者はエコノミストより予測用のデー
         タにアクセスすることが不便なのだから、そうすることが理屈にかなっている
         と私は思う。 」  (なお、下線は引用者による)

    こうした観点は原田氏のようなリフレ派だけでなく、消費税増税推進派や財政再建重視派にも共通する標準的な理解といってよい。ポール・クルーグマンも、2012年7月30日のインタビューでつぎのように述べている。通説的理解では、これはパラドックスである。
        「(日本国債について)私ですらこんなに債務水準が高くなっているのに信認が失
      われているいかなる兆しも見られないことにいていると言わざるを得ない。」(なお、
            下線は引用者による)
          出所:「NHKBiz plus:ポール・クルーグマン・プリンストン大学教授へ
 のインタビュー 7/30/2012」
                      『クルーグマン経済学の翻訳ブログ』
                 http://anomalocaris89.blog69.fc2.com/blog-entry-192.html
                  ※New Economic Thinking2と4 でも引用しましたが、リンク先が誤っていたので、いずれも
2014.11.24 に修正しました。

2 フェリックス・マーティン『21世紀の貨幣論』から

    日本国債のパラドックスを考えるための材料として、フェリックス・マーティンの『21世紀の貨幣論」を見てみよう。この本は、簡単に言えばマネー(貨幣、通貨)に対する2つの観点の対立を描いている。非常におもしろいと思う。この内容を見ることから、始めよう。

(1)古典派から新古典派経済学に連なる標準的な経済学の系譜

   2つの観点のうちの 一つは、ロックに始まる客観的物理的経済学。これは、ジョン・スチュアート・ミル、ジャン・バプティスト・セイ、アダム・スミスなど、さらに古典派経済学から新古典派経済学につながっている。現代経済学の主流はこれだ。
    この観点は、財・サービス市場で、マネーは財・サービスの「交換の媒体」として使われる点を重視する。したがって、マネーは、市場の取引を円滑化するだけで、独自の役割を果たすことはない。マネーが過剰に供給されれば、物価の下落上昇を引き起こすと考えるが、それは名目値でみればこそであり、実質値でみれば影響はないと考える(古典派の二分法である)。
    しかし、この観点は、マネー経済の発展に伴って生じた、バブルの形成と崩壊の周期的な発生を説明できなかった。近くは、リーマン・ショック後の金融危機であり、世界経済は、現在もその影響に苦しんでいる。

   これに対して、フェリックス・マーティンは、マネーが市場での交換の代用物として発生したという通説的説明を、経済史上のさまざまな事例に基づいて実証的に排する。
    経済史上の例を見ると、むしろマネーがない社会の市場取引は、取引の当事者間で債権債務関係の発生(貸しと借り)の相互確認によって行われ、取引の積み重ねによって双方向の債権債務が相互に累積されてゆく。そして、定期又は不定期の適当な時点で、相互に相手方に対して持っている債権と相手方に対して自分が負っている債務の相殺が行われ、それによって決済が行われていたことを明らかにする。
    この債権債務関係は、取引の当事者である2者の間に発生し、通常は当事者間だけの関係である。貸しと借りによる取引は信用できる相手としか行われない。しかし、その債権や債務を他者に譲渡、移転できれば、その他者は多数の債権や債務を集積し、全体として(多数の債権債務の相殺により)決済が容易に行えるようになる。このためには、特に債務を負う経済主体が信用できなければならない。その債務は必ず支払われるという信用があれば、債務(と債権)は、実際に取引を行った2者を離れて、他者に移転され独立して通用するようになり、それを使って別の2者間あるいは多者間の債権債務を相殺する機能を持つようになる。それが、マネーの発生過程だったことを説得的に明らかにする。
    2者間で交わされた債権債務関係が、当事者を離れて他者の債権債務関係の相殺(=決済)に使われるために、何が必要だったかと言えば、それは債務を証明する証書が作成され、それを持参した者に間違いなく支払うという約束が信じられるかどうかである。つまり、発行者の「信用」が重要になる

   この意味でのマネーが信用に依存することから、「信用は変動しうる」点が問題になる。マネーとなるものが債権債務関係であることからすると、信用の強い者の発行する債務証書ほどマネーとして安定して通用し得るものになる。最も強い信用を提供するのは国家であり、国家の発行する一種の債務証書がソブリンマネー(われわれが通常理解している通貨、貨幣)である。そして経営の安定した銀行などが発行する債務証書(預金口座)の信用がそれに次ぎ、さらに一般の企業の発行する社債、債務証書、中小企業のそれや手形、個人のそれと順に信用度が低下していく。

    経済が好調であり、倒産が少なく、債権が紙切れになることが少ない経済状況では、幅広い多くの債務が信用の高いものとして扱われ(信用が高いという意味で貨幣性が強まり)、流通する実質的な「マネー」が拡大していく。ここで、マネーの拡大とは、より多くの取引相手が信用されるということだから、取引が拡大する。つまり、より多くの発注が行われるようになり、経済は拡大する。しかし、それが過度になると財・サービスに関する需要には限度があるから、取引の対象は不動産や美術品などに拡大していく。バブルである(バブルになってゆく)。

    逆に経済が不調となると、倒産が増え、それにより債権が紙切れになることが増える。すると、信用される債務の範囲は縮小し、そのために、流通している実質的なマネー(様々な経済主体が発行する債務証書のうち誰にも信用されるもの)の範囲は縮小していく。特にバブルが崩壊した後には、信用される債務証書の範囲は極めて小さくなり、それによって深刻な信用危機が生じる。

        注)ここでいう信用の拡大や縮小とは銀行による信用創造や企業間信用などの拡
              大や縮小にあたる。重要なことは、それがマネーの本質に起因し、それがマ
              ネーを中心とする経済システム全体を支配しているという観点が必要なことだ。

  主流派経済学の枠組みには、こうしたダイナミックな信用の変動を取り扱える要素や枠組みが含まれていない。むしろ、それを排除することで客観的な経済学の確立が目指されたのだからだ。その結果として、主流派経済学は、バブルやその崩壊後の深刻な経済危機を取り扱えない経済学となった。

(2)バジョットに始まる実務家の貨幣観

 これ(主流派経済学)に対して、もう一つの観点が、ウォルター・バジョットに始まる金融関係者の実務経験を元にした信用、信認、流動性を重視するマネー観金融観)である。フェリックス・マーティンはこれ(後者)に注目する。金融関係者は、資本主義化の進展の結果、周期的に発生するようになったバブルとその崩壊で発生する金融危機に苦しみ、それに対応するために、金融の実務からマネー経済のメカニズムを理解して、その経験を蓄積していった。

    金融関係者は、そうした経験的な知識に基づいて、彼等の業務の範囲内でこうした危機に対応していたが、金融業者に対する信用には限界があったため、危機への対応にも限界があった。このため、金融業界のマネーの取り扱い能力や実務的な知識と、王権の信用の結合によりイングランド銀行というイノベーション(それは後の中央銀行に発展していった)が生み出された。しかし、イングランド銀行の行う金融政策は、王権との結合を介して、議会つまり政治の強い影響を受けるようになった。
   このため、金融業界の知識を、支配層など影響力のある人々にも広く理解してもらう必要が生じた。そうした必要性から、バジョットは、金融業界に蓄積されたマネーに関する重要な理解として、「信用」「信認」「流動性」の重要性を訴えることになった。それは、古典派のマネーの理解とは大きく異なるものだった。

    中央銀行は、その後、物価の安定など主流派経済学的な課題に取り組むことを課せられるようになっていった。しかし、金融危機への対応に関しては、細々ながらバジョット的観点のマネー理解が生き残り、危機に際しては、その知識と過去の経験を元に対応がとられた。つまり、危機で頼りにされたのは主流派経済学的理解ではなく、バジョット的観点だった。

    そして1930年代の大恐慌で、ジョン・メイナード・ケインズが、バジョットの観点に再び経済学の光を当てた。そして、大恐慌の経験を元に、グラス・スティーガル法に代表される過度の(過大な)信用の膨張を防止する制度が構築されたことから、戦後の経済は安定した。
    しかし、その安定が逆に、「元々市場経済制度は安定しているのだ」という、M.フリードマンらを中心とする新自由主義的な新古典派系経済学の台頭を生み出し、80年代以降、過度の信用の拡大を防止する制度は「規制緩和の名の下に」解体されていった。一方、バジョットからケインズに至った系譜は、細々とハイマン・ミンスキーに引き継がれていた。

    その後、90年代以降、規制緩和による経済のグローバル化を進めるいわゆるワシントン・コンセンサスの下で、日本をはじめ、東アジア、中南米でバブルの生起と崩壊が目立つようになった。当時、これらは、むしろ、これらの国々の規制の強い後進的な経済制度が原因だと解釈されていた。
    だが、米国でもITバブルの形成と崩壊等を経て、住宅バブルの崩壊からリーマン・ショックの発生で大恐慌以来とされる大規模な金融危機が発生した。世界で最も経済に関する規制が緩和され、市場経済がもっとも自由に発達し、市場がもっとも効率的で合理的に機能していたはずの米国でバブルが形成され、それが崩壊したのである。

    リーマン・ショック後の金融危機は、金融危機における主流派経済学の無力を、およそ80年ぶりに「再び」明らかにした
    古典派経済学を引き継いだ新古典派系経済学こうした「信用の収縮・膨張」を扱う糸口すら持っていなかった。

3 標準的経済学が見落としているマネーの機能

    だが、残念ながら、このバジョットの観点でも、不足している問題があると考える。この枠組みも、財・サービス市場と資産市場(土地市場、債券市場、貨幣市場など)を区別しないからだ。財・サービス市場の取引は付加価値〜GDP(=一国内で創造された総付加価値額)を左右するが、資産市場の取引は、資産の価格変動を生むだけで付加価値を生まない。ほとんどの人々の所得や就業に関係があるのは、財・サービス市場である。財・サービス市場と資産市場を区別しないということは、(新古典派だけでなく、バジョットの観点も)両者の関係を把握する枠組みを持たないということである。
     問題の原因は、貨幣の使用を基本的に『取引的動機』のみで捉える枠組みを持つことによる。

    ヒックスは、貨幣の機能として、①計算単位としての機能②交換手段としての機能③価値貯蔵手段としての機能の3点を上げている(これが教科書的説明になってる)。このうち、①は当然である。上記の取引的動機での使用とは②の機能に係わる。問題はこの②と③の関係である。

   現代の主流派経済学では、マネーの機能のうち主に②の機能を前提に経済学体系が構築されている。このように、マネーが単に②の交換手段としてだけ使われているのであれば、マネーの使用とは、財・サービスの受け渡しと常にセットであり、マネーは(①のほかは)単なる媒介物であり独自の機能を果たすわけではない。したがって、財・サービスの取引を実物的に把握すれば(マネーについて考えずとも)それだけで経済を把握できることになる。これが古典派の観点である。「古典派の2分法」(マネーの変動は実体経済に影響を与えず、逆も真)や、「貨幣ヴェール観」とはこうした観点を表している。

 (1)機械的な貨幣数量説

    一般物価を決めるのは貨幣の量だという「機械的な貨幣数量説」は、こうした観点に基づいている。貨幣が②の取引の媒介物としての機能しか果たさないなら、貨幣の供給量が多くなると貨幣(という商品)の価格は低下して、(他のすべての商品の価格つまり)物価全体が上昇する
    だが、これは経済の現実に合わない。貨幣の機能のうちの③価値貯蔵手段としての機能を無視しているからだ貨幣がどれだけ供給されても、それが③として保蔵されていれば、物価は上昇しない。これは現実に、異次元緩和下の今日の日本や、リーマン・ショック後の米国など先進各国等の大規模な量的緩和下で我々が目にしていること
    問題は、主流派経済学の体系が②の機能のみに依存している点にある。②と③を別に区分して考える必要があるというのがNew Economic Thinking  2の主張だ(なお「New Economic Thinking  2」でいう「取引の媒介物としての貨幣」は②に、「資産としての貨幣」が③に対応している)。・・・(New Economic Thinking  2参照このページで「取引の媒介物としての貨幣」などをキーワードで検索。中段あたり》

(2)貨幣の流通速度とマネー

    こうしたことは、貨幣の流通速度に関しても言える。フィッシャーの交換方程式に基づく「MV=名目GDP」で定義される貨幣の流通速度(V)が安定しているという解釈も、こうした貨幣観に基づく。
    しかし、実際には貨幣の流通速度は安定していない。もちろん、その原因には金融取引に関する技術的進歩等の影響もある。だが、それだけではない。「財政出動論22 貨幣流通速度と不況期資金余剰」の図6、図7以下、特に表1と図9をみれば明らかなように、不況下では、明確に貨幣の流通速度の低下率が加速している。・・・M.フリードマンも短期では低下することを認めている(注)。
        注)「財政出動論22」でもふれたが、フリードマン=シュウォーツ『大収縮
              1929-1933「米国金融史」第7章』p.60
    このように「貨幣の流通速度は安定している」という理解が現実と合わないのは、機械的な貨幣数量説と同様、不況下などでは、貨幣が「資産として」保蔵される傾向が強まる(貨幣の保蔵の程度は景気変動と連動する)という観点が脱落しているからだ
            注)参考までに、財政出動論22の図9を上げておこう。「M2+CD」がマネーストックである。
                景気後退期(水色の期間)にマネーストックの減少傾向はほぼ見られない。景気後退で生じる名
                目GDPの低下傾向に連動して低下しているのは貨幣流通速度の変化率である。
                    説明は財政出動論22参照(バブル期とその崩壊期は特性が異なるため別扱いである点など)
        注)データ出所:名目GDPは季調済四半期(内閣府)。M2+CDは季調済月次データから四半期平均(ただ
               し、 2008年第1四半期までは旧マネーサプライ統計のM2+CDだが、第2四半期以降はマネーストッ
               ク 統計の季調済四半期平均M2(=旧「M2+CD」ー非居住者預金)を単純に接続)。景気後退期の期間
               は内閣府による。

    もちろん、長期では、②取引の媒介物としての貨幣と③資産としての貨幣の2つの機能の間の割合や関係は安定しているかもしれない。だから、マネタリズムも新古典派経済学も「長期」の理論を体系の基礎に置くのである。そして、それが短期では現実と乖離する問題を補い、説明するために、補完的なモデルや要因を付加し、つぎはぎの絆創膏として貼り、説明する。
    今日の現代経済学の発展とは、こうしたつぎはぎを研究することなのだ。これは、かつて天動説が現実と合わない点を説明するために、エカント、離心円、周転円、副周転円、副々周転円などを追加することを学問の進歩だと考えていたのと同じである。
    そもそも、現代マクロ経済学が短期の現実と合わないのは、体系の中に、その基礎として、③の「資産としての貨幣」を把握する枠組みを基本的に持っていないからだ。現代マクロ経済学は、マネーを漠然と捉えているが、その内実は②の取引の媒介物としての貨幣の観点しかない。

(3)「資産としての貨幣」の組み入れを提案する「New Economic Thinking  2」

    New Economic Thinking  2は、こうした問題を踏まえて、貨幣を②「取引の媒介物としての貨幣」と③「資産としての貨幣」に意識的に区分して捉えるべきだという提案をしている。これによって、財・サービスの生産や取引などに係わる②「取引の媒介物としての貨幣」・・・これは従来の主流派経済学が把握してきた部分だ・・・と③「資産としての貨幣」の関係を分析する枠組みができる。そして、②③の両者の割合、バランスが経済状況によって変動すると考える(変動しないとしたら、それは従来の古典派の観点と同じで、2つを区分する意味はない)。
    もちろん、現実のマネーをこの2つに区分することは技術的には難しい。だが、集計的には、一定の仮定を置くことで、(ある意味で間接的に)その変動を把握することは可能だと考える(後述)

   なお、これは、この観点を従来の新古典派系の体系に付加することで、新古典派体系が拡張されるのだということである。全く新しい別の体系を従来の体系に置き換えて使おうと言っているわけではない。

    もちろん、ここでいう貨幣の2つの区分だけで、貨幣の「信用」の収縮・膨張といった変動の問題のすべてを扱えるようになるわけではない。これは、この問題を既存の現代マクロ経済学の体系が扱うための基礎であり、その意味で必要な出発点にすぎない

    しかし、この2つの区分は、それだけの意義しかないわけではない。
    たしかに、バブルの崩壊に伴う金融危機を扱うために、信用の変動を捉える観点は極めて重要だ。しかし、バブル崩壊に伴う金融危機、信用危機が収束しても、その後には長い停滞が生じている。90年代の日本のバブル崩壊後の停滞、リーマンショック後の金融危機収束後の先進諸国の停滞などだ。現在も世界経済は停滞を続けている。
    「New Economic Thinking  2」と拙著日本国債のパラドックス・・・重不況の経済学が提案している体系は、そうした金融危機収束後の停滞や不況期の問題を理解するための新しい枠組みに関するものだ。その中で、貨幣の2つの機能を区分して把握するという観点は重要な役割を果たす。


4 経済学者の一般常識「マネーの不足が景気後退を引き起こす」は正しいか

    上で見た、貨幣の2つの機能を区分して把握するという観点の意義の一つを、「マネーの不足が景気後退を引き起こす」という常識の問題で考えてみよう。

(1)マネーの不足が景気後退を引き起こす?

    例えば、フェリックス・マーティン『21世紀の貨幣論』は、マネーの不足と景気後退の関係について次のように述べる。
    「一般には、マネーの不足が景気後退を引き起こすとされており、不況の原因として最初にあげられることが多いが、(古典派の観点では)それは幻想である。・・・(古典派では)総供給が減ってはじめて、総需要が減るのである。」(320p)。しかし、これに対して「バジョットの経済学に照らせば、景気後退はマネーが不足した結果として起こるという一般的な見解は、端的に言うと、完全に正しい。」(321p) ・・・マーティンの立場は後者を支持する。
    また、片岡剛士氏の」『日本経済はなぜ浮上しないのか』(幻冬舎、2014)でも、
・・・潜在GDPが実質GDP17兆円下回る状態にありました。いいかえれば、人とモノが十分に活用される状態であるためには、それだけのお金が市場に出回っている必要がありますが、そのお金が17兆円も不足していたということでもあります。」と説明されている(注)。
     注)なお、これは、批判ではなく、現実に、不況が需要不足によって発生する
               と考える観点のうちの主流派では「不況下ではマネーが不足している」とい
               準的な理解であることを示すための例示である。

(1)ーB(大きな注)・・・ 『不足制約原理』
     この問題を考える際に、『不足制約原理』について少し説明しておこう。
     拙著「日本国債のパラドックスと財政出動の経済学」新評論2013)の補論3(238-243ページ)では、『不足制約原理』を取り上げてこの不足制約原理については、この一連のブログでは「New Economic  Thinking14 『長期停滞』とトランプ現象」の前半でも少しふれいる。だが、不十分なので、ここで書いておくことにした)。 

    不足しているモノが状況を左右する(支配する)
    不足制約原理、「不足していものが」状況(例えば経済)を支配するということを言っているにすぎないイオネル・ロビンズ『経済学とは希少性の学問だ』という定義は広く知られているが、不足制約原理は、それと同じ観点の別の側面 
    ロビンズ希少性の高いモノ価値が高い・・・経済学はそれをあつかう学問だと言っているのだ
    希少なモノ=不足するものが状況を支配するということは別に経済に限られない。例えば、何かの生産工程で、何か一種類の原材料や部品の供給が不足していと、その供給がなければ生産工程全体が止まってしまうが、供給してやれば生産工程全体が動き出す。当たり前だろう。このような生産工程の話と同様、経済でも、何か不足しているモノがあれば、その増減が経済を左右するのは当然だろ

    水の例
    例えば、「お金を湯水のように使う」という言葉は、日本では、お金が希少で(したがって高価であり大事に使うべきものであり)、逆に水は有り余っている(したがって廉価でありあまり注意深く使わなくてもよい)ことを示している。日本では、水の価値は小さい。希少ではないからだ。
    だが、砂漠や乾燥地帯へ行けば、水は希少である。そうした地域では、オアシスのように水があるところにしか町や都市はできない。水が都市の立地を左右するのである。また、そうした都市では、水を大量に使う産業は立地できない。
    しかし、こうした水が足りない地域で気候が大きく変化したり、大河川の流路が大きく変化したら、水のない(=希少性の強い)地域が、水の豊富な(希少性のない)地域に変化して、都市の立地条件において水の重要性は大きく低下し、産業の状況大きく変わる。
    こうした時に、依然として水が希少だと考え続けて、それに基づいて政策や商取引を行っていたら、そうした活動は、有効性を失い失敗してしまう。

    経済では
    これと同じことが、経済でもある。
    (資本)
    例えば、資本が足りないために経済成長ができないことはある。かつて、開発途上国は一般に資本不足の環境にあった。そうした国では、資本の蓄積を促進するような制度に意味がある。例えば、日本一般社員のボーナス制度(毎月の給与のほかに特定の時期にたまに支給されるため、貯蓄に回されやすい)とか、戦時期に導入された郵便貯金などの貯蓄奨励制度などだ。これらは、日本が投資資金不足だった時代には効果が大きかった。
    しかし、今は、投資や金融のグローバル化を整備する制度整備が、自由貿易の推進の観点や、新古典派系経済学から派生した新自由主義やワシントン・コンセンサスなどによって推奨され、あるいは強制されたことによって、先進国の豊富な(余剰)資本が開発途上国に投資され、開発途上国でも資本の希少性は弱まっている。したがって、こうした状況下では、成長要因として資本を重視する分析は有効性を低下させることになる。
    先進国でも、ここ数十年、新古典派系経済学の影響力の広まりの下で、新自由主義、株主資本主義思想広まり、資本の蓄積を重視した(労働者対する分配を抑制し株主や投資家への分配を優先する)分配政策や制度改革が採用されてきているが、これが(経済成長に)有効であるかどうかは、投資資金が本当に不足しているかどうかにかかわっている。明らかに不足はしていないと思う(企業の内部留保の増加を見れば明らかだろう。たとえば『コラム:企業の利益剰余金390兆円、経済の停滞要因に(ロイター))。だが経済成長のために法人税減税を行うべきとする議論が、今でも有力な経済学者によって唱えられていたりする。
    (労働力)
    また、労働力が過剰な国もあれば、不足している国もある。そうした国では、労働力の経済成長要因としての重みは違うはずだ。 
    (さて、経済学、経済学者・・・・)
    経済学者は、残念ながら、そうした「希少性変動」様々な経済現象を引き起こす主要な原因が移り変わる可能性を考えない。思考、分析、発想の枠の中に、希少性が変動するという観点が入っていない。ある特定の状況下で測定しして得られた要因を後生大事に使っているそうしたことが、今の現代経済学が、経済を有効に説明出来ず、予測が悉く外れる原因になっている。
        注)あるいは、まことに精緻な統計手法を使った経済分析においても、例えば、労働力の過剰な国と不足している国をまとめて統計分析するような例は極めて普遍的だ。少し前に話題になったラインハート=ロゴフの『国家は破綻する」の基礎となった論文ではエクセルの単純ミスで話題になったが、そもそも彼らの分析は好況期の事例と不況期の事例を区別せずに統計処理している点で無意味だった(と考える)。
   繰り返しになるが、 今の経済学は、ある限られた環境下で何らかの経済現象を測定して、何らかの経済現象について、その原因を抽出すると、それが、あらゆる場面で正しく通用すると考える例に満ちあふれている。だが、その原因の影響力は、異なった環境では小さくなったり別の環境では大きくなったりすると考えるべきだ。

    この観点からすると 、たしかに、「マネーが不足」している状況で、不足しているマネーの供給を減らしたり、増やしたりすれば、それは経済に大きな影を与える。ここまでは、賛成できる。しかし、問題は、本当に、このマネーは不足しているのかである。実際のところ、今はマネーは不足していないと考える。それを以下でそう。不足していないなら、マネーをコロールしても、経済に大きな影響を与えることは出来ない。  

    ・・・実際、ケインズは、金融が緩和されている状況でさらに緩和しても、効果はない(小さい)と言っている(「紐を引けば効果があるが、紐を押しても効果がない」という喩えはこのこと)が、これは、不足していない、有り余っているマネーをさらに追加供給して効果は無いと言っているわけで、これは不足制約原理にかなっている。

    つまり、その状況を理解する考え方シンプルに表現したのが不足制約原理だ。経済学は、現象の統計的な分析ばかりに気を取られ過ぎている。難しい数学で自己満足し悦に入らずに、もっと基礎的な理解に立ち戻るべきだと思う。それには、極めて常識的で普遍的で単純なことだが、そうした基礎に立ち戻るべきだ。   

(2)景気後退時にマネーは減少していない(低下しているのは貨幣流通速度)

   しかし、上で見た財政出動論22 貨幣流通速度と不況期資金余剰」の図9をみれば明らかなように、名目GDPの伸び率が低下するときには、マネーの伸び率に低下傾向は見えない。名目GDP伸び率の低下に連動して、低下傾向が生じているのは貨幣の流通速度である。

    貨幣の流通速度の低下とは何を意味するだろうか。
    通常、マネーが流通しているとき、取引でマネーが使われても、マネーは消滅することはなく同じマネーが何度も使われる。マネーが何度使われるかがマネーの回転率であり、これが貨幣の流通速度(の定義)である。貨幣流通速度の低下とは、マネーは存在するが、それの利用率が低下することを意味する。
   仮に、マネーが1か月に1回使われていたものが2か月に1回しか使われなくなると、貨幣の流通速度は半分に低下することになる。言い方を変えれば、マネーは1か月間余計にどこかに滞留していることになる。それが預金であれば、預金が決済に使われない期間が延び、その間銀行に滞留していたということであるし、現金であれば、企業や個人の手元の金庫などにお金が使われないまま保管されている期間が延びたということだ。このことが経済に与える効果・影響は、実質的にタンス預金と変わらない(使われないままお金が滞留しているのだから)。

(3)「取引の媒介物としての貨幣」と「資産としての貨幣」区分の意義

    New Economic Thinking  2で、②「取引の媒介物としての貨幣」と③「資産としての貨幣」を区分すべきと言っているのは、こういう点にかかわる。もちろん、現実に、貨幣が両者のどちらの状態にあるかを区分、特定することは難しい。しかし、貨幣流通速度が、たとえば、3だったものが2に変化したとするなら、集計的な意味で、差引1回転分のマネーは②の「取引の媒介物としての貨幣」であったものが、単に価値が保蔵されるだけの③「資産としての貨幣」に転化したのだと考えることが、マネーの変動に関する理解としては合理的と考える

    こうした区分で(回転率(使用率)を含めて)見ると、確かに、名目GDPの低下に応じて実体経済(財・サービス市場)で「使われるマネーの量」は(貨幣の流通速度の低下分だけ)縮小したと言える。だから、需要不足を認める立場では通説的な「不況ではマネーが不足する」という理解は間違っているとは言えない。これは、交換方程式(MV=名目GDP)の右辺の変動に応じて、左辺(MV)が変動しているという程度の意味だ(等号で右辺と左辺が結ばれているのだから当然だ)。
    しかし、仮に、そのような解釈を認めるにしても、それは誤解を生みやすい《注》。Mは減少したわけでなく、単に使われる程度(V)が変動しただけだからだ。そこで使われなかったマネーは、消失したわけではない。マネーは引き続き存在している。マネーストック統計で見てマネーストックは決して減少していない。
         注)マネーが不足していると考えると、単純に不足しているマネーを市場に
             供給すれば済むという誤解を生みかねない。
                 もちろん、これは直ちに量的緩和政策の否定を意味するわけではない。
             量的緩和による資金供給が、最終的に、マネーを使用する取引の増大につ
             ながればよいからだ。しかし、それに必要な資金供給量は、単純に「不足
             している」ように見える量の(少なくとも)4、5倍では足りないくらい
             量が必要なようだ。
                 それに必要な規模が大きいことは、(明確に中央銀行の金融引き締めに
             よって生じた不況を除いた)一般的な不況の原因がマネーの不足」には
             ないことをうかがわせる。もちろん、不況へのプロセスの中でマネーの不
             足が作用した可能性は残る。しかし、不況が持続している原因にはマネー
             の不足という要因はないように見える。マネーの不足が原因であれば、そ
             の不足分のみを供給すれば直ちに景気は回復に向かうはずだからだ。


    「不況期にはマネーが不足している」という観点は、マネーを②の取引の媒介物としてのみ捉える観点に囚われた理解である。それは、マネーに関する古典派的な理解を引きずっているのだ。景気の後退に伴って経済取引が不活発化(=GDPが低下)すれば、確かに取引に連動している②の取引の媒介物としてのマネーは減少する。それが貨幣の流通速度の低下として現れるのだ。しかし、③の資産としての貨幣を含めて考えれば、マネーは不足していないのだ。

    経済学的な用語で書くかぎり「不況ではマネーが不足する」という理解は排されるべきだ。

(4)取引で使われないマネーはどこへ行った(②③間のダイナミックな移行)

    では、財・サービス市場の取引では使われないマネーは、どこへ行ったのだろうか。それは、一部は企業や家計の手元に使われない状態で、また大半は銀行等への預金として銀行に使われない状態で滞留しているのである。使われる頻度が減少して、使われない状態が少し長く続くようになっている。それが貨幣の流通速度低下の意味だ。
    これをタンス預金と比較してみよう。タンス預金は、銀行を介して企業に借りられ、設備投資に使われ得ないため、(タンス預金が増加すると)総需要の不足をもたらすことになる。「タンス預金」とは、家計の手元に現金が貯め込まれているのだが、それでもいつかは使われるだろう。使われるまでの期間が短くなるほど、それは取引の予備的に保有されている貨幣という状態に近づいていく。タンス預金と取引のための予備的保有の境界がどこにあるかと言えば、境界は、相対的なものにすぎない。それが、経済に与える影響の性格は変わらない。程度が変わるだけだ。同様に、タンス預金と、使われない状態の期間が少し長くなっている貨幣の区別も相対的なものにすぎない。それが経済に与える影響を考えれば、それはタンス預金と変わらない。

    「New Economic Thinking  2は、そうした状態のマネーを『資産としての貨幣市場』に流入したとみなす。つまり、財・サービスの取引に使われなくなった貨幣、あるいは使われる頻度が低下した分は、「資産としての貨幣に転化」し、資産としての貨幣市場に流入しているとみなせばよいと考える。それは、現実問題として金融機関に(言い方を変えれば貨幣市場に)当座預金や普通預金となって滞留しているのだ
    銀行は、そうした資金の滞留が集計的に増加し、余裕が生じていることを認識し、それを有効に運用しようとして、それを使って債券投資を行う。つまり、貨幣市場で資産としての貨幣に超過需要が生ずるが、それを預かる銀行などは、資金の滞留を集計的に認識して、運用のために主に債券投資を行う《注》。つまり、貨幣市場でだぶついた資金は債券市場に流入する。その結果、債券市場で、超過需要が生ずる。債券市場の超過需要とは、より多くの債券(国債など)発行(供給)が求められているということだ。そこでは、金利を低くしても債券の需要は高いから買ってもらえる。つまり、金利は低下する。
        注)貨幣市場でだぶついた貨幣が、主に債券市場に流入するのは、他の運用先
            のリスクが上昇しているからだ。まず、そもそも、不況で設備投資が減少し
            たため貨幣が使われなくなり、それが貨幣市場に滞留しているのだから、貸
            出へは流れようがない。
                また、土地への投資は、不況では、貸出先や投資先破綻するリスクが上
            するが、貸出先や投資先が破綻して緊急に貨幣・現金が必要になったとき、
            土地を現金化する場合には、売却手間と時間がかかりすぎる(結果、安く
            投げ売り的に売ることになる。それでも売れない可能性もある)から、資産
            を土地で保有することはリスク高すぎる。また、不況下では、証券市場も、
            価格下落のリスクが高まっ ている。
                かくして、不況下では、資金の運用者はリスクへの即応を考慮して、流動
            の最も高い貨幣・現金か、流動性は若干低いが金利が見込める債券での運
            用を選択する。
                債券市場の中でもっとも流動性が高いのは国債である。つまり、重い不況
            であるほど信用リスクが重視され、債券市場の中でも流動性と信用の高い国
           債市場に資金が集中する。

    「New Economic Thinking  2」は、マネーが、財・サービス市場の需要不足〜需要超過間の変動に応じて、②取引の媒介物としてのマネーと③資産としてのマネーの間をダイナミックに(実際には静かに)行き来し、②と③のそれぞれの側からみると、ダイナミックに膨張、収縮を繰り返すという貨幣観を持つ。

(5)New Economic Thinking  2」のマネー観とワルラス法則

   こうして、貨幣を②取引の媒介物としての貨幣と、③資産としての貨幣の2つに区分して考えるという観点は、財・サービス市場で(②取引の媒介物としての貨幣として)使われていた貨幣が、③資産としての貨幣市場を経由して債券市場に流入して、主に債券市場で超過需要を生み出すということがリーズナブルに説明できることになる。
    もちろん、このとき財・サービス市場で需要不足(=超過供給)が生じ、その一方債券市場で超過需要が生じ、両者の合計はプラスマイナスゼロとなる。つまり、すべての市場の超過供給が常にゼロになるというワルラス法則を満たす

    現在の通説的見解(不況下財の需要不足下でマネーが不足しているという見解)は、ワルラス法則を満たさない(「New Economic Thinking8 現代経済学の不況の議論の大半はワルラス法則を満たさない」参照)のに対して、この理解は、ワルラス法則をごく自然に満たす観点なのである。


5 結論:日本国債のパラドックスと2つのマネー

    日本が巨額の国債を発行し続け、その残高が世界最高水準を更新し続けているにもかかわらず、国債の金利は世界最低水準にあるということは、拙著『日本国債のパラドックスと・・・』とNew Economic Thinking  2」の観点からすれば、パラドックスでも何でもない
    不況で、財・サービス市場の需要不足が大きいほど、債券市場には財・サービスの需要として使われなかった購買力(資金)が流入を続ける。このため、債券市場には超過需要が生じ、巨額の国債も低利で円滑に消化される。不況であり、それが重いほど、国債の消化は円滑である。
        注)逆に、好況下で財・サービスの需要が高いときには、マネーは、財・サー
            ビスに使われ、債券市場に資金は流入しない。このとき 、債券市場の国債の消
            化力は低下するから、国債は金利高くしないと売れず、金利は上昇する。
                したがって、好況下での財政出動は、クラウディングアウトやマンデル=フ
            ミング効果による(財政出動の効果を相殺する)負の効果を引き起こし、それ
            による効果の相殺で財政出動の効果低下する。
                その逆に、不況下では金利は上昇せず(それは常に経験していることだ)
            このためにクラウディングアウトやマンデル=フレミング効果によるマイナス
            効果は(不況下では)発生しない。

    一方、景気が回復を始め、財・サービス市場の需要不足が解消していけば、債券市場に流入する資金は減少し、国債金利も上昇していくが、そのときには同時に、景気の回復で税収は急速に増大していくし、景気対策に必要な財政出動資金も減少していく。
    また、この観点はワルラス法則を満たしている。そして、上で述べてきたように、これは2つのマネーの理解とその区分にかかわっているのである。

    これに対して、通説的理解は、日本国債のパラドックスを説明できず、ワルラス法則を満たさないのである。