2016年11月5日土曜日

New Economic Thinking14 『長期停滞』とトランプ現象

改訂:29.8.14若干の字句の修正。28.11.11/12 タイトル変更。冒頭に前置きを追加。 28.11.7pm7字句の修正。28.11.6am10主に「不足制約原理」の説明若干加筆。28.11.5pm6 字句の修正。

《前置き》

今回の米大統領選挙で、トランプ氏の当選をポピュリズムに結びつける見方多い。では、なぜこれまではポピュリズムが大統領選を支配せず(影響が小さく)、なぜ今、それが政治を支配するようになったのだろうか。
原因は、従来とは異なるレベルの大きな環境変化が生じているのだと考えるしかない。トランプの当選は、今のエリート達を支配している思想すなわち世界を支配している一つの経済思想に対する反発がもたらしたと考える。

ポピュリズムのトランプに対して、非ポピュリズムの代表として民主党のクリントン氏に目が向きがちだが、民主党の大統領候補選出過程では、社会民主主義者を自称するバーニー・サンダース氏の予想以上の大健闘があったことを思い出すべきだ。トランプとサンダースは、単純な見方では対極に位置するが、この二人が予想に反して大きな支持を集めた原因は、共通すると考える。彼らは、政界の主流である既存の政治エリートと、それらエリートが信奉する主流派の経済思想をひっくり返そうという多数の国民の意思に押し上げられたと考えるべきだ。

こうした既成の政治家や、今やそれらのエリートを支配している「現在の経済思想の主流派」に対する反発は、実は過去10年以上にわたって持続してきており、それはますます強くなってきている。

 近くは、ヨーロッパにおける反移民、反グローバリズム、反EU・反ユーロを標榜する政党が勢力を拡大している状況があり、英国では国民投票でのEU離脱の選択という結果があったばかりだ。
 米国においても今に始まる動きではなく、8年前のオバマ大統領の選出の際にも大きなうねりがあった。
オバマ氏は、変革を掲げ米国民の熱狂的な支持と期待を担って大統領に就任したが、議会とのねじれの下、民主党内を含め既成の政治家やエスタブリッシュメントに絡め取られ、その政策は期待を裏切り、国民の熱狂は冷めていった
 こうした妥協を強いたのが、民主党内の既成の政治家達であり、彼らは、政治的には従来の民主党的な政策を信奉しているとしても、経済的思想においては、自由市場やグローバリズムの信奉者であり、かつて米国の中間層に多くの職を豊かに提供してきた製造業の犠牲の上に、金融を中心とする業界の繁栄を図ることを国益と考える人達だった。そして、彼らは金融業界の繁栄に寄与する経済政策を採用してきたから、金融業界と深いつながりがあるとみなされるようになっている。

その代表格の一人がクリントン氏であった。彼女の夫ビル・クリントン氏は、個人的には今でも高い人気があるとされる。しかし、彼の大統領時代、彼が任命したゴールドマン・サックス出身のR・ルービン財務長官の下で、1995年頃から「ドル高政策」が採用された。
 これによって、金融業界はドル高で流入する海外資金を国内や海外に再投資することができるようになった(クリントン政権下では、同時に、大恐慌時の1933年に成立したグラス・スティーガル法による投資銀行と商業銀行の分離や、マクファデン法などによる州際業務の禁止(州境を超えて銀行業務が出来なかった)などの金融業に関わる規制は、次々に撤廃,緩和されていった)
 この結果、米国では金融産業が隆盛のときを迎え、「金融立国」が急速に具体化していくことになった。
 こうした過程で、金融業界は、ますます、政治との結びつきを深めていった。また、同時に金融業界は、金融論だけでなく、マクロ経済学の主要なユーザーでもあったから、金融業界、経済学界、政府は、こうした過程を経て、緊密な関係を結び、利害を共有する関係を築き挙げていくことになった。

 一方、当然ながら、このドル高政策で米国の国内製造業は国際競争力を急速に失った。したがって、米国製造業は、流入する資金とドル高を活かして海外に工場を建設して、そこで生産した製品を米国に逆輸入する道を一層強化していくことになった。
   米国の製造企業は、それに適応した。しかし、米国民の大多数はそうではなかった。米国内の製造業の雇用は縮小し、海外で生産された製品との価格競争を通じて、米国の賃金は常に低下の圧力を受け続けるようになった。

まず、このドル高は、意識的に選択されたのである。すなわち、米国は、クリントン=ルービン政権下で、国内製造業を見捨て、金融『産業』に軸足を移すという選択を意識的に行った。これは、レーガン時代に匹敵する極めて大きな歴史的な政策転換だった。なお、言うまでもなく、当時からヒラリー・クリントンも政権の有力な一員だった。

このクリントン政権の政策転換以降、米国製造業は海外の開発途上国に工場を建設し、輸入する道を選ぶことになったが、そのためには、海外投資が安定的に行えなければならない。したがって、その環境として、持続的な自由貿易の推進や、ワシントン・コンセンサスの強制などによる国際投資環境の整備、つまり経済、金融、投資のグローバル化が強力に推進された。また、投資相手国の治安や政治が安定している必要があったから、米国は、政治的にも軍事的にも、そうした投資相手国に引き続き介入を続けることになった。

 上でも述べたように、こうした政策は、当然に米国内(そして先進各国)の雇用力を削ぎ、米国の中間層はさらに急速にやせ細っていった(他の先進諸国もこれに準ずる)。

では、投資を受け入れる開発途上国はどうだろうか。高度成長以来の日本の輸出は、資金の国内調達(→貯蓄奨励政策)という制約の下で行われ、日本経済が大きくなった高度成長末期には、米国との間に深刻で激しい『貿易摩擦』を生んだ。
 これに対して、クリントン政権以降に本格的に輸出立国政策を採用した中国や東南アジア諸国などの国々は、貿易摩擦を心配する必要がなくなり資金や技術は、米国などの先進国から積極的に移転された。このために、現在の開発途上国は、日本が成長していた時代よりも、さらに急速な成長が可能になっている。
しかし、先進諸国の中間層の縮小、格差の発生、所得の停滞、国内需要の停滞といった、現代の先進諸国を覆っている閉塞感の原因は、こうした政策(金融産業の振興、経済・金融・投資のグローバル化、ワシントン・コンセンサス等々)の結果であることが、漠然とながら米国民にも体感されている。
 トランプ旋風に代表される、世界の政治の大きな変動の背景にはこうした経済思想に基づいた経済政策の大き変化があ(その原因と経過は本文で述べる)、それが先進国内の雇用の安定を損なっているという理解浸透してきたことがあると考える。
  
そして、こうした政策を推進してきたのは、既成のエリート、エスタブリッシュメント、政治家である。
 1970年代以降、主流となった経済思想に基づいて、グローバル化や金融の重視といった経済思想が、政党や党派を問わずに共通した、既成のエスタブリッシュメントの思想となったと感じられているのだ。
 それに対する抵抗は、8年前のオバマ旋風を生み出し、期待されたが、ダメだっただから、さらに過激な人材が求められることになったと考えればよいと思う。

  また、こうした主流派の経済思想に従って推進されてきた政策は、単に先進国内の雇用や所得への影響を通じて格差の拡大、社会の安定を損なうようになっただけではない。すでにそのシステム自体が行き詰まりつつあり、世界経済の「長期停滞」の原因にもなっていると考える。それは、本文で述べよう。

   以下の本文の内容は、自由貿易や経済のグローバル化を否定するものではない。ただ、それが急速に進みすぎたことが、マクロ的なアンバランスを生み、それが世界経済の停滞、行き詰まりにつながっていると考える。進行に節度を求めているにすぎない。 
   現代の主流派経済学は、専ら供給のみを考え、需要は自動的に供給とバランスすることが想定されているために、アンバランス発生のメカニズムを考える枠組みを持っていない。それが、アンバランスの存在自体をみない、あるいはそれを過小評価する原因となっていると考える。

==========《以下、本文》============

  この「New Economic Thinking シリーズ」のベースには「需要が経済を支配する状況があり得る」という観点がある。
    そうした観点から「長期停滞」のメカニズムについて説明して見よう。

 (『長期停滞』だけでなく多様な経済変動をシンプルに説明する)
  表題や上では、「長期停滞」について説明するとしたが、これは同時に、現在の「金利の低下」の原因(中央銀行の金融政策以外の原因)、「バブル」の生成と崩壊の頻度や規模の拡大の原因、ワシントン・コンセンサスの背景、あるいは「格差の拡大」といった問題についての説明になる。表題は、単純化して『長期停滞』に代表させたものだ。

    ただし、アバウトにである。「アバウトに」とは、思考の流れをアウトライン的にという程度の意味である。だから、とりあえずあまり厳密ではない。もっと も、厳密に考えても、きちんと成立するだろうとは考えている(多少の修正を加えることはあり得るかもしれないが、)。

    『himarinaryの日記 』2016-10-25さんから、ジェイソン・ファーマン米CEA(大統領経済諮問委員会)委員長の「新たな財政政策の五原則」の中の一文 を引用してはじめよう。
低金利は危機の副産物というわけではなく、むしろそれに先行していた。先進国の10年物国債金利は1985年には約6%だったが2005年には2%を切った。現在の超低金利を脱したとして も、5~10年前に当然視されていた水準に戻るとは考えにくい。」
   (’Five principles to follow for a new fiscal policy' "英フィナンシャルタイムズ" OCTOBER 20, 2016 )

    なぜ、低金利になったのかが、ここでの「長期停滞論」の思考のヒント、出発点だ。だが、ここでは、それに基づく思考の展開過程を辿るのではなく(それにより得られる結論を経済史に沿って説明しよう。

1 1960年代〜70年代にかけて米国経済の「供給側」に問題


    1960年代には、ヨーロッパ諸国が第2次大戦からの復興を遂げ、日本の復興と高度成長も始まり、主要国でただ一国のみ戦災を受けなかったために生じていた米国経済の圧倒的優位は低下し、米国産業の国際競争力は、低下しつつあった。時代はブレトン・ウッズ体制下であり、固定為替相場制下にあったから、それは貿易赤字の拡大を生じさせた。
   単純化して言えば、貿易赤字とは、国内経済の供給サイド(生産能力、効率性、価格競争力等々)に制約がある状態の結果として生ずる現象だと言える。
    ちなみに、一方で、60年代初頭、民主党のケネディ政権で始まった米国のベトナム戦争への本格介入は、次のジョンソン政権でさらに拡大し、60年代末のピーク時には、陸上兵力のみで54万人がベトナムに派兵され、米国の財政を圧迫した。
           なお、米国の要請により韓国やオーストラリアを中心とする同盟国も合わせ
        て6,7万人を派兵したが、米国は、そのうち5万人規模の派兵を行った韓国
        に対し て、兵士の給与全額を負担したほか、大規模な経済支援を行った。こ
        れも、米国の財政・経済を圧迫した。ちなみに、日本やヨーロッパ諸国も、
        米国の要請に応じて、韓国経済に大規模な経済援助を行った。いわゆる 「漢
        江の奇跡」が起きたのは、この時期である。
   貿易赤字に伴う経常収支赤字の支払いのため、ドルは海外に流出し、米国外に拠点を置いて流通するドルが規模を急速に増していった(→ユーロダラー)。
   こうした変化を受けて、ドル・ショック(ニクソン・ショック)が発生する。これは、直接的には、ドルと金の交換停止を指すが、それが必要になった原因は、米国の国際競争力の低下にある。国際競争力の低下によって、米国は、もはやドルの発行量に応じた金準備を蓄積することが出来なくなったのである。貿易上の国際競争力の変化の調整は、基本的には為替レートによって調整せざるを得ない(内的減価は 痛みが大きすぎる)。だが、当時はブレ トン・ウッズ体制下の固定相場制だった。
        注)これに対して、近年の例では、ユーロ圏でも同じ問題が生じた。ユーロを使用する国々間も固定
           相場制と同じだが、往事の米国と同じように、ユーロ圏内で生じた南北の競争力格差を解決するた
           め、米国の場合とは異なり、ギリシャなどは、国際的な協調融資の条件として、内的減価による競
           争力上昇を求められたため、ギリシャなどそれらの国々の失業率は急上昇し、経済は疲弊した。
              なお、「内的減価」とは、競争力の調整等を為替レートの切り下げではなく、主に賃金や物価の
           引き下げで行うことを言う。
   米国は、その固定相場制を維持するために、金の自由な流出を抑えようしたのである。それが、金とドルの交換停止の実質的な意味である。それは、ドルのニーズを低くしたことから、為替レートは固定だったが、ドル安の強い潜在的な圧力を受けることになった。結局、その後、ドルを減価(ドル安化)させてドル安圧力を調整した上で為替レートを固定し固定相場制を維持しようとしたスミソニアン合意もあったが、長続きせず、結局、世界は変動相場制に移行していくことになる。

   重要なことは、こうした一連の変動は、米国産業の国際競争力の低下を反映したものであり、加えて、当時の米国は、ベトナム戦費やジョンソン政権の社会保障支出などによって国内経済は需要超過状態にあり、米国製品の供給には限界(供給制約)があったため、輸入が不可欠となって貿易赤字が拡大していたのである。

2 これを受けて、経済学も「需要の経済学」から、「供給の経済学」に転換

(1)不足制約原理
    供給に制約があるときは、供給に関わる障害を取り除けば、経済は成長できる。ここでは、「供給を重視する経済学」が経済をよく説明できるだろう。
   逆に、需要に制約があるときは、需要の障害となっている原因を取り除けば、経済は成長できる。このときは、需要を重視する経済学」が経済をよく説明できるだろう。
   全体の仕組みの一部分になにか制約があれば、全体のパフォーマンスは低くなる。その部分(全体の一部)の制約を解決すれば、他をいじらなくても、それだけで全体のパフォーマンスが大きく向上する。
   こうした、不足して制約のあるものが全体のパフォーマンスに大きな影響を及ぼす現象は、普遍的に見られる現象である(というより当たり前である)。
   効率改善の手法等で使われるクリティカル・パスとか、ボトルネックの考え方の基礎にはこれがあるし、経済学でも、例えば(忘れられた原理だが)ショートサイド原理は、これと同じ考え方がベースにある。また、そもそも、経済学の定義として今日でもしばしば引用される、ライオネル・ロビンズの経済学の定義:「様々な用途を持つ希少性のある資源と目的との間の関係としての人間行動を研究する科学」(ウィキペディア)の中の「希少性」とは、まさに、それが「希少」=不足しているものであるが故に、経済現象全体を制約し、その現象全体の挙動を規定することになるために重視されているのである。

   拙著(『日本国債のパラドックスと財政出動の経済学』(新評論、2013)の補論3
(238-243 ページ))では、これを『不足制約原理』と名付けて普遍的に成立する有用な原理として紹介している。これは、経済環境の変化のなかで、不足するもの(要因)が変化することによって、経済現象の挙動を大きく左右する因子が移り変わっていく状況を理解するための視野を広げる意義がある。経済現象を左右する主要因は、特にリーマンショック前後の経済のように経済を規定する状況が大き変動することで、様々な要因が経済を説明するウエイトが変化している(部分がある)と考える。

(2)支配的な経済学の供給側の経済学への転換
    さて、主に大恐慌という需要の不足する経済下で成立したケインズ経済学は、需要を重視する経済学だったから、供給が不足するようになった1960年代後半以降の米国では、主に供給側の要因が経済変動を規定するようになったため、経済に適合しなくなっていった。この結果(そのほかにもいくつかの要因が重なったと一応は言っておこう)、米国の経済学界は、ラグを伴いながらも、供給を重視する新古典派系の経済学に転換していった。米国の経済学は当時(〜現在も)世界の経済学をリードしていたから、「供給の経済学」が世界を席巻することになった。

   米国以外のヨーロッパ諸国などの先進国では、供給制約の大きかった戦後復興期(このころは供給の経済学が妥当したはずだ)を終えた70年代以降は、むしろ需要の不足が経済を規定するようになった。だから、ヨーロッパの先進国には、米国とは逆に供給の経済学は必ずしも当てはまりはよくなかったかもしれない。
   しかし、米国以外にも供給不足の経済はあった。開発途上国の経済だ。これらの国々は、資本が不足していたし、適切な教育を受けた労働者も不足していた。技術も不足し ていた。米国で発展しつつあった供給重視の経済学は、世銀などの開発援助などを通じてそれらの国々に当てはめられ、それに基づいて援助が組み立てられた。 画一的なあてはめには問題があったが、供給不足の経済の国々の経済の理解には米国生まれの新しい?経済学はそれなりに通用する部分も少なくなかった。

(3)今日、需要不足が持続的に生ずることはあり得ないと考えられている
       (この項は、飛ばしてもかまいません)

    供給を重視する新古典派系の経済学である今日の主流派経済学では、需要不足が(一時的には別にして)持続的に生ずることはあり得ないと考えられている。な ぜなら、均衡状態ではセイの法則が成り立ち、このとき、生産物(これを財・サービスという)の生産のためのコストとして株主の配当、労働者の賃金、政府へ の税金等として支払われたマネーは、効用最大化原理に従って、全額が生産物の購入に使われるから、生産された生産物は全て売れるからだ。
    だから、生産側つまり供給側のみを考えていれば、需要は自動的についてくると考えられている。これから、投資を重視する供給側の経済学が導かれる。
   だが、分配されたマネーの中で、その一部を生産物以外の購入に使う割合が増加することがあれば、生産物のすべては売れないように見える。 個人では、こうしたことは(例えば貯蓄)は頻繁に生じている。しかし、経済全体では、こうしたことは生じないと考えられている。例えば、個人が貯蓄を増や しても、別の個人は貯蓄を減らしているだろう。また、仮に経済全体の貯蓄が増えても、それを企業が金融機関を介して借入れて、設備投資に使えば、設備投資 の内容(工作機械とか生産機械などの生産設備等)も生産物なので、結局、生産されたすべての生産物が売れると考える。

    こうしたメカニズムについては、拙「New Economic Thinking11 需要不足・巨額国債発行と貨幣の循環~セイ法則不成立のとき何が起きているか」の前半で解説している。

   しかし、例えば、マネーが生産物(財・サービス)ではないものに使われるとどうなるだろうか。例えば土地、債券などの金融資産などである。一見、金融資産や土地に投入されたマネーは、それらを発行したり売却した企業や国が受け取り、そのマネーは企業や国が行う設備投資、消費や基盤整備に使われるように見える。つまり、土地や金融資産を売った者は、それを財・サービスのために支出するから、経済全体で見ると差引相殺されるように見える。しかし、売った者がその売却代金を使って、(財・サービスではなく)さらに別の土地や金融資産を買ったらどうなるだろうか。つまり、売却代金(の一部)が土地や金融資産に再投資され続ける場合である。
    ・・・これがどんなときに生ずるかと言えば、土地市場や金融市場に持続的にマネーが流入するような場合である。前者の典型はバブルである。後者もバブルだったり、不況で使い道のないマネーが金融機関にマネーのまま滞留する場合がある。
   あるいは、マネーを使わずに、マネーのまま保管,保蔵してしまったらどうなるだろう。マネーは大抵が金融機関に預けられる。だから、金融機関は、それを他の者に貸すのが普通である。すると、借りた者はそれを使って、家を建てたり(住宅投資)、工場の建設など設備投資に使うと考えれば、すべてはやはり生産物の購入に 回り、需要の不足は生じないように見える。
   だが、そうならない場合があることは、実証的に示すことが出来る。

   これについては、拙「財政出動論22 貨幣流通速度と不況期資金余剰」 で、グラフを使って示している。ここで、貨幣の流通速度とは、貨幣の使用の頻度のことである。貨幣の使用の頻度は、バブル期と不況期に低下することが実証的にわかる。これは、バブル期には、土地市場などに資金が流入していること、また不況期には、資金が金融機関に滞留して(預金が減らないか増える一方で、 貸出の頻度・回転率が低下して)いることを示している。

     上記の「New Economic Thinking11 需要不足・巨額国債発行と貨幣の循環~セイ法則不成立のとき何が起きているか」の後半では、こうした現象を資金の循環に沿って解説している。

   このようになる原因は、個人や企業が、不況やバブルという環境下で、「一斉に」 消費を節約して貯蓄を増やしたり、設備投資を一斉に縮小したりするからだ。こうなると、Aさんの行動をBさんの逆の行動が打ち消すというマクロ的な相殺のメカニズムは働かない。

3 供給重視の政策によって分配が変化した


    (2の(2)に続く形になる)
   かくして、米国では、供給重視の経済学が支配的になるに従って、供給制約を取り除くために、設備投資を促進する政策が推進された。例えば設備投資資金の供給拡大のために、株主への配当を優遇するなど株主の株式投資を促進する政策、あるいは社債投資を促進する政策など、貯蓄性向の高い富裕層への分配を促進する政策につながった様々な制度の改革が行われた。これらの政策は、供給重視の経済学や、新自由主義的な思想によって正当化された

4 しかし消費の伸びが低下したために、設備投資が停滞し、資本のリターンも低下

    だが、こうした分配の変化は、真の最終需要である消費の主体である勤労者の所得を抑制する方向に作用し消費の伸びは停滞した。富裕者の消費性向は低く、その大部分は投資(ただし、金融資産投資や土地投資である)にまわされるからだ。その結果、(生産物増産を目的とした)設備投資による供給増加政策は供給過剰を招いたから、設備投資のリターンは低下した。したがって、設備投資資金需要は低下し、金利は低下していった。
    次のグラフを見ると、世界の成長率は、1970年代に断層的な変化(低下)を生じたことがわかる。原因としては、オイルショックなどの影響や、ドルショック以後の変動相場制への移行などいくつかの要因が挙げられている。
   だが、ここでは、優勢となった新古典派系経済学を背景に分配が変化し、需要の制約が強まったことが(→需要の成長の不足という制約を経済にもたらしたことにより)、成長率の低下をもたらしたという仮説を提示しておこう。

5 →資本の運用者は二つの方向《資産投資の拡大》と《海外投資拡大》を志向

(1)「資産投資の拡大」と「バブル」
   一つ目は、「資産投資の拡大」である。「資産」は、その時点(今の時点)の経済のサイクルで生産されたものではないという点で「生産物」(すなわち「財・サービス」)とはまったく異なる。マネーが資産投資に持続的に多く流入することで生ずるのは、「資産価格」の上昇のみである。これは財・サービスにおける「物価の上昇」と同じものであるから、「生産」が増えたわけではない。
   さて、上記3で見たように、分配の変化によって生じた消費の停滞によって、設備投資も停滞し、それによって、設備投資資金需要が停滞したため、マネーは、まずは、金融資産投資や土地などの不動産投資に機会を求めた
   ここで、資産市場への資金の流入がどの程度かを示す資料を見てみよう。金融資産とは将来時点の財・サービス購買のための蓄積だと考えれば、財・サービスの生産《GDP》が伸びない中での、金融資産のみの規模の増大は、(マクロ的には、それによって将来買える財・サービスは相対的にどんどん少なくなっていくのだから)本質的にバブル的であり、不安定なものである。下図を見ると、「金融資産/名目GDP比」は、例えば1980年には1.09倍だったのに対して、2005年には3.17倍に増加している。
    ここで、次の言葉は示唆に富むだろう。すなわち、金融危機では「資産の所有者は、・・・住人のいない賃貸住宅のようなものです。不動産ではあるものの家賃収入はありませんから価値がないのです。」       (U.ヘルマン『資本の世界史』太田出版、2015、269ページ)
   この「賃貸住宅」を金融資産に置き換えれば、「住人がいないために家賃収入がない」とは、「資金需要がない(借り手がいない)ために金利が極めて低い」となる。リターンが少ないのに大量の金融資産が増え続けている。これはバブルの特徴でもある。

    また、土地投資も基本的には、土地価格の上昇は、市場に流入する資金量に依存するから、財・サービスの生産規模(GDP)の伸びを伴わない価格上昇は、基本的にバブルである。

   かくして、資産市場では、実際にバブルの生成と崩壊が頻繁に繰り返されるようになった。
   需要の経済学(ケインズ経済学)が中心の時代には、バブルの発生と崩壊の頻度は低かったが、ちょうど、供給重視の新古典派的経済学や新自由主義経済学が主流を占めるようになった頃から、バブル発生と崩壊の頻度が上昇しているように見える。
   2000年以降を見ても、世界的な規模でのバブル崩壊は、2000年代初頭のITバブルの崩壊、そして米国の住宅バブル崩壊を背景に生じたサブプライム危機から2008年のリーマンショックに端を発した世界金融危機がある。

(2)海外投資・・・グローバル化の推進
   もう一つの道は、海外投資の拡大である。これを、実体経済企業と資産運用者の2つの視点で見てみよう。

    a 企業は低コストを目ざして開発途上国での生産を志向した
   企業の経営層は、需要が停滞する国内市場での売上拡大競争(それは成長市場での売上競争とは異なり、ゼロサムゲーム、つまりシェア争奪競争である)に勝って利益を上げるために、低賃金で低コストの生産ができる開発途上国での生産を志向した。

    b 資産運用者・富裕層も高い投資リターンを開発途上国に求めた
    資産運用者・富裕層も、先進国である自国市場での(金融)投資のリターンの低下、金利の低下から、成長可能性が高く、高い投資リターンが期待できる新たな投資先を探していた。それは海外に(開発途上国)あった。

6 海外投資の円滑化に向けて、金融と投資の「グローバル化」が必要とされた


    先進国の経済主体が、開発途上国に投資を行う際の障害は、投資環境すなわち規制、リスク、それに為替レート等である。

    企業が、開発途上国に工場を建設するときには、事業の開始や工場の建設に関して、さまざまな許認可が必要になる。子会社を設立する場合にも、その支配に関して規制がある場合が多かった。また、生産された製品の輸出や原材料、部品の輸入に関しても制約が大きい場合が多かった。かくして、規制が多すぎることが経済発展の障害だとして、開発途上国を中心に規制の緩和が強く求められた。また、工場から、港湾等への道路などの交通基盤等のインフラ整備も重要になる。
    また、開発途上国で生産した製品は、自由に先進国に輸出できなければならない。すなわち、自由貿易が推進される必要があった。
   一方、金融投資家・資産運用者が、開発途上国に金融投資を行う場合には、資本規制が障害になる。また、外国為替政策に関して予見性がない政策運用がしばしば行われては、リスクが大きい。さらに、例えば、融資相手先金融機関に対する規制が強かったり、金融機関に対して政府の恣意的な強い影響力が働く可能性があったり、あるいは投資先企業の財務諸表等にその国特有のローカルルールがあって適切な分析評価ができないといったことがあると、リスクが高くて自由な投資ができない、等々といったことがある。
    したがって、開発途上国への投資を円滑化していくためには、こうした様々な制約を取り除くことが不可欠になる。それが金融や投資の「グローバル化」の意味である。

   かくして、開発途上国に対しては、生産工場の建設投資や金融投資を安定的に行える環境を開発途上国に作らせる政策が取られる(推奨される、また可能なら強制される)ことになった。その際の推奨又は強制の基準となったのが、いわゆる「ワシントン・コンセンサス」などである。

7   ワシントンコンセンサス等の強制や自由貿易で、投資・金融のグローバル化が進行

   開発途上国は、ワシントン・コンセンサス等の受入によって、途上国自身の供給拡大の制約となっていた資本を先進国から容易に調達できるようになり、技術についても、先進国企業は、先進国内での価格競争に勝つために、先進国市場で通用する製品を低賃金の開発途上国で生産してもらうために、積極的に技術を移転した。

    開発途上国には、生産する製品の市場はなかった(=国内市場での需要不足)、製品は先進国市場に輸出すればよかった(=海外の《先進国》市場依存)
   これは、開発途上国で、高度成長のためのマクロ経済政策を容易にした。もし、海外の先進国市場への輸出ができなければ、国内で生産された製品の市場を国内に求める必要があるから、マクロ経済政策においても需要に対する配慮が不可欠になる。
   だが、海外への輸出が可能なら、国内の需要に配慮する経済政策は必要がない(低い)。かくして、高度成長する開発途上国では需要を意識せずに供給側の政策のみで成長が持続できた。供給重視の経済学バンザイである。一方、仮にもし、先進国市場が開放されていなければ、新古典派系経済学の有効性、信頼性は直ちに深刻な危機に直面しただろう。
   このためにも、「世界貿易の自由化」が、持続的かつ執拗に推進されたのである。「貿易の自由化」は、供給側のみを重視する新古典派系経済学の延命にも大きく寄与した(不可欠だった)といえる。だが、それは、自国内で完結するマクロ経済を世界経済に拡大することで生じた一時的な延命に過ぎなかった

8 その結果、先進国での雇用停滞から先進国市場の需要の停滞が生じた

   上記のように、低賃金の開発途上国で生産された製品の市場は、先進国で生産された製品に価格競争で打ち勝ち、その市場を奪うことで確保された

   しかし、それによって、先進国国内の生産が打撃を受け、先進国では労働者の雇用が奪われ、あるいは先進国労働者の賃金は、開発途上国との製品価格の競争を理由に抑制され、消費を担う中心層の所得の停滞により、先進国の消費需要は(さらに)停滞するようになった

   もちろん、開発途上国製品の先進国市場でのシェアが小さいうちは、先進国で生産された製品の市場を奪っていけるから、開発途上国は輸出を伸ばせる。
   しかし、開発途上国の輸出品が先進国の製品を先進国市場内で駆逐し、先進国市場で大半のシェアを占めるようになると、それは当然に、先進国の雇用や賃金の抑制・減少を通じて先進国消費者の所得減少に直結し、先進国の需要が停滞するようになる。その結果、その先進国市場の需要に大きく依存するようになった開発途上国の製品輸出も頭打ちとなる
    かくして、先進国の需要の停滞は、最終的に開発途上国の輸出の停滞に反映されるようになり、開発途上国の急速な成長は制約されるようになった。
    すると、開発途上国の急速な成長による高い投資リターンを期待して行われていた様々な投資は、成長の停滞によって需要の当てが外れリターンを期待できなく なる。その結果、流入していた資本は期待はずれの結果を受け取ることになる。崩壊というほどまでには至らずとも、バブルの行き詰まり的な現象も現れることになる。

   これが、「グローバル化の行き詰まり」という現象として現れることになる。(=今は、ここに到達したところ)

9 結局、供給を重視する新古典派系経済学を背景とする新自由主義経済学は・・・・

    先進国内では、富裕者や企業への分配を増やすことで、富裕者の所得を拡大したが、それによって消費の大部分を占める中間層以下の消費が停滞したため、国内市場では設備投資を増やすことはできず、資本のリターンは低下した。これは、供給主導の標準的経済学の行き詰まりを露呈することになる。
   これに対して、金融界・資産運用者や新古典派系エコノミスト達は、海外の開発途上国への投資によって、資本のリターンの向上を図る政策を政府を動員して行い(ワシントン・コンセンサス等)、一時的にはそれに成功した。また、国内では、海外の発展途上国製品との比較で、労働者の賃金の抑制にも成功したが、それは先進国の国内需要の停滞をもたらし、それはさらに開発途上国の輸出の停滞につながったため、開発途上国投資も終焉を迎えて行き詰まっている。

   すなわち、海外投資資金は、一時はグローバル化によって、開発途上国への投資という行き先を得たが、それも行き詰まった。開発途上国の輸出成長自体が、先進国の豊かな市場の存在を前提としているからだ。そして、開発途上国の輸出成長自体が、その先進国の豊かな市場を毀損し、その結果は開発途上国の成長自体の抑制に跳ね返っている。

   国内での資産投資もバブルを生むだけであり、その先は崩壊のリスクが高まっている。・・・まあ、米国金融業の政治力、影響力が大きいし、経済学者も飼い慣らして来たので彼らも使えば、政府が助けてくれるけど。

    開発途上国は、労働者の賃金を上昇させ、国内市場(=自前の需要)を育てていくことで、成長をすることができる。しかし、労働者の賃金の上昇は、先進国への輸出競争力の低下と相反する関係にあり、微妙な調整舵取りが必要になる。 決して容易でない経路である。

   これが「長期停滞」のメカニズムだと考えます。

2016年5月2日月曜日

New Economic Thinking13 「(リカード)等価定理」と矛盾する「世代会計」

                                                                                             この「ブログ全体の目次
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関連ページ
財政出動論25 リカード中立命題と負担の次世代先送論 
New Economic Thinking3 リカード中立命題とマクロ的中立命題 
財政出動論12 財政出動とリカードの公債中立命題
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    平成28年4月27日付けと28日付けの日本経済新聞の「経済教室」に「世代会計で考える」という論考が2つ掲載された。

    27日付け吉田 浩氏世代会計で考える(上)消費増税延期、『将来』に重荷ー目先の負担減に警鐘」
    28日付け小塩隆士氏「世代会計で考える(下)『将来』との利害対立、深刻にー国民純貯蓄、ほぼゼロ」

    これを機会に、あらためて、世代会計とマクロ経済の関係を整理しておくことにする。このページは、「財政出動論25 リカード中立命題と負担の次世代先送論」を「世代会計」を中心に整理し直し、光を当てたものになる。

    結論的には、「世代会計」は、世代間の関係に視野が広がった点で価値はあるが、各時点の経済を見る視点は、部分経済に限られており、マクロ的な観点が弱い。こうした課題については、両先生も簡単に付言してはおられる。しかし、そもそもマクロ経済に影響する問題を考える際には、世代会計は使えないと考える。

    世代会計は、ミクロ・・・つまり個々の企業や個々の家族に適用する(いわば「部分経済」を考える)場合には意味がある。しかし、マクロ経済・・・つまり例えば一国全体の経済に巨大な影響を与える問題(例えば日本経済の中で2割の規模を持つ経済主体である政府の問題)を考える場合には、意味がない。適用自体がナンセンスである。世代会計では、重要なマクロ的波及経路が脱落するからだ。

世代会計と等価定理

    そもそも、世代会計をマクロ経済に適用する場合、いわゆる「等価定理(中立命題)これは、一般にリカード等価定理(中立命題)として知られているを満たさなくなる。政府に世代会計を適用しようとするに、この点が忘れられているのである。等価定理を満たすような条件で世代会計を、マクロ経済に巨大な影響を与える政府に適用すると、(世代会計の)価値は失われてしまう。

     リカードの等価定理とは何かからはじめよう。ここで「等価」は、「増税」「国債増発」の等価を言う。
     まず、「増税」である。政府が財政出動公共投資や政府消費を増やす)を行う資金を得るために増税すると、増税によって民間経済主体の資金吸収され民間企業や家計が使える資金が減少するため、予算の制約のために家計企業は消費や設備投資を減らすことになり、それによって財政出動の効果は相殺されて意味がなくなってしまう
    これに対して、財政出動の資金を「国債の増発」る場合、民間の資金が減少するのは将来の国債償還のための増税の時点であり、それまでは消費等は減らないため、国債増発で財政出動する時点では、財政出動の効果がそのまま現れるように見える。
    しかし、リカードやバローによれば、政府が景気対策などのために国債を増発すると、国民は政府がその国債の償還のために将来増税すると予想し、それに備えて納税に必要な資金をあらかじめ貯蓄してしまうその貯蓄を行うには消費や設備投資を減らす必要がある。このため(将来を待たず)現在の時点で消費や設備投資が減少してしまうしたがって、政府が景気対策のために支出を増やしても、効果は民間消費や設備投資の減少と相殺され、景気対策(財政出動)の効果はない
    この意味で、税と国債が経済に与える影響は等価であるというのが、リカードの等価定理だ。

経済的(経済学的)な「負担」の定義と世代会計の「負担」観

   さて、ここで 「負担とは何かを考えておこう。負担というと「税負担」だけ(あるいは税+社会保険料の負担くらいまで)考えがちだ世代会計はまさにそう考えて議論をしている。これは、極めて素朴な「負担」観だ。そして、世代会計が、一見有効に見える理由の一つが、こうした素朴な「負担」の定義にある。つまり、世代会計はこうした素朴な「負担」の定義に依存している。
    この定義に従えば、単純に、「課税」には「負担」があるが、「国債」引受(購入)には「負担」がないことになってしまう(注)
    この定義は、一般の常識に乗っているために特定の素朴な「負担」に関する定義に世代会計が依存しているという認識すらないのだろうと思う。

        注)後述するが、後述の経済学的な「負担」の定義では、国債の引き受けは 、
           ミクロの家計や企業にとっては、たしかに「負担」がないとみなしてよいが、
           マクロ的には「負担」があると言える。
    
    経済学的に意味のある「負担」の定義を考えるために「税負担」とは何か具体的に見てみよう。すると課税によって、企業や家計が保有していマネーのうちの相当分(納税してしまった分)を、消費や設備投資に使えないということであることがわかる負担」とは、経済的には、結局、保有するマネーが何らかの理由(この場合は納税)で減少し、思った通りに使えない部分が生じるということなのだ。
    これを、さらに一般的に書くと、経済的な意味での『負担』とは、使えるマネーが減少する」・・・あるいは、「保有するマネーの使用に制約が生じ、思い通りに使えなくなる」ということである。これが「負担」の経済的な意味であると考える。

    こうした「負担」の観点で、国債発行の場合見てみると、リカードらの見方(等価定理)では、国債が発行された場合、家計や企業は将来の増税を予想し、それに備えて、消費や設備投資を抑制して貯蓄することになる。この場合、この貯蓄は将来の納税のために現在は「使えない」のである。つまり、納税までの間、それは退蔵される(注)。これは、上記の「負担」の定義に適合する。つまり、負担は、将来の国債の償還時点ではなく、国債発行時点で生ずるのである。
    このように「負担」を定義すると、リカードの等価定理では、国債の増発は、増税と同様、現在の民間経済に「負担」という影響を与える点でも「等価」になるのである。これにより財政出動のための資金を得る方法が、増税であろうと国債増発であろうと、それによって民間で消費や設備投資使える資金減少するため、それが財政出動の効果を相殺する。つまり財政出動には効果がないという結論も出てくる。・・・もっとも、これはセイ法則が常に成り立という前提でのみ成立する議論である(後述)

        注)なお、貯蓄の大半は金融機関に預けられ、金融機関を介して企業に貸し出
            され、設備投資に使われるように見えるかもしれない。セイ法則常時成立
            すると主張する立場の経済学者もいるが、その根拠は、おおむね、うした
            点にある。
                だが、不況下需要が不足している状況)では、消費や特に設備投資の減
            少が広く観察されている。このとき、同時に貨幣の流通速度の低下が観察さ
            。これは、財・サービスの生産、分配、支出に使われる貨幣の利
            用(回率=貨幣の流通速度)が減少しているのである。
                        財政出動論22 貨幣流通速度と不況期資金余剰」の図6,9、表1など参照) 
                これは、不況によって財・サービスの取り引きに使われる資金が金融機関
            に滞留し、設備投資に使われていないことを示す。
                つまり、現実に、企業は需要が減少していると認識 設備投資の必要
            を認めていない。したがって、金融機関に貯蓄が溢れていて、その貯蓄
            十分に設備投資には使われ設備投資十分に増加せず需要は不足 
            ることになる。
                つまり、消費の落ち込み設備投資の増加がカバーすることはない。
            況下で、セイ法則が成立しない状態が発生するのは主にこうした理由があ
           ると考えられる。
                これは現代経済学の基本的な考え方の一つ、つまり、不況で消費が減っ
            ても、貯蓄が増加するため、金利が低下して設備投資が増え、それが消費
            の低をカバーて、需要は自動的に回復すというメカニズム十分に
            は機能していないことを意味する。つまり、そうした基本的な考え方は、
            設備投資を左右する要因をあまりにも単純化しすぎていると考えるまた、
            それはリーマンショック後の日米欧の経済を十分に説明できているとは言
            えない。   

マクロ的中立命題(等価定理)

    実は、上記のリカードやバローの「将来の増税を見越して、増税に対応する資金を貯蓄する」という企業や家計の行動が常に十分に実現するかどうかには疑問もある。しかし、そうした将来の予想や「期待」といった不確実なメカニズムによらずとも等価定理(中立命題)は当然に実現する。

     これについては、すでに「財政出動論25 リカード中立命題と負担の次世代先送論」でも述べたが、中立命題(等価定理)のメカニズムとして、リカードやバローのように、将来の増税予想による現在の消費抑制を考える必要はない。セイの法則が成り立つなら(この意味は後段で説明する)、 それだけで、増税と国債増発は等価になる

    そうなる理由は、増税も国債も、民間資金を吸上げ、民間経済主体の消費や設備投資のその時点の予算を制約する点でマクロ的に変わりがないからだ。
    一見、国債発行の場合、国債を購入した家計や企業は、マネーのかわりに国債という資産を保有しているのであり、消費や設備投資の必要を感じれば、その資産(国債)を売却すれば直ちに必要なマネーを使えるように見えるとすると国債を売却すれば、消費・設備投資可能なのから、国債の購入、保有(消費や設備投資の)予算の制約にはなっていないように見えるかもしれない。ミクロでは確かにそうだ。国債という資産は、換金性や流動性では、現金や預金には若干劣るが、他の資産に比較すれば、現金や預金(普通預金)つまり貨幣に近い資産である。それを貨幣に交換(国債を売却して貨幣を受け取る)すれば、消費や設備投資自由に使え、違いがないように見える。
    だが、マクロでは異なる。国債を売却するには、それを買う他の企業や家計が存在しなければならない売却した企業や家計の予算制約はたしかに解消されるが、それを買った企業や家計は、新たに消費や設備投資の予算制約される(注)。つまり、マクロ的みると、民間経済主体(企業や家計)間で、国債保有による消費や設備投資に関する予算の制約は別の企業や家計などの(別の)ミクロの経済主体に引き継がれるだけで消滅することはないのである。ミクロでみると、国債は自由に貨幣に交換でき、それを消費→設備投資に自由に使えるが、それは、消費や設備投資をしない別のミクロの企業や家計が、それを買ってくれるからだ。マクロ経済をある時点で切り取ると、消費や設備投資をしない家計や企業が常に存在し続ているのである。これが、ミクロとマクロの違いである。・・・「ミクロ的基礎付け」が過剰に意識されてきた結果か、このことがわかっていない経済学者、エコノミストは少なくない。

        注)これは国内の民間経済主体が購入することを前提としている。主な例外は
            は2つである。
                一つ目は、中央銀行が、転売された国債を買場合である。このとき、
            央銀行は経済的には政府の一部とみなせるから、民間経済への影響は政府
            国債を償還したのと同じになる。この場合、民間経済全体としての予算
            は解消される。
                ちなみに(後述するが)重い不況下では、民間経済主体は、企業は将来の
            需要不予想やリスクの増大、また家計は雇用不安のために、設備投資や
            消費を抑制してから、民間の予算制約が解消されても、そのマネーは使
            われず、マネー金融市場に滞留を続ける。
                二つ目は海外の経済主体が国債を買場合であるの問題に
            いては財政出動論25 リカード中立命題と負担の次世代先送論参照。
            ・・・いずれにしても、わが国は、経常収支がほぼコンスタントに字である
            ため、資本は常に海外への流出超過 (日本は海外へ資本をコンタントに
            出させるほど国内資金が潤沢であることを意味する)であり、海外資金
            に依存する前提の議論は、あまり意味がない
              
    したがって、国債の増発も、増税と同様に、民間の消費や設備投資の予算を制約する点で変わりがないこれは、将来の国債償還時点の増税予想や期待とは無関係に生じることに注意しよう。つまり、将来の増税予想(「期待」)がなくても、税と国債増発は、民間経済への影響は等価であるといえる。
   リカードやバローの考える『期待』メカニズムとは異なるマクロ的な予算制約によるメカニズムで、増税と国債増発は「等価」になる。 だから、「財政出動論25 リカード中立命題と負担の次世代先送論」では、「リカードの中立命題」と区別して、これを「マクロ的中立命題(ないしは等価定理)」と呼んでいる。

「マクロ的中立命題(等価定理)」の観点から見た「リカード中立命題(等価定理)」

    リカードやバローの観点はどの程度正しいのだろうか。
    リカードの等価定理がもたらす状況(=消費や設備投資が減少し、貯蓄が増えること)は、マクロ的中立命題(等価定理)のみで十分合理的に説明できるマクロ的中立命題は、あやふやな「期待」などに依存せず、会計的なレベルで説明るのである。リカード中立命題について観察されたとされてきた経済現象の原因の大部分は、マクロ的中立命題(等価定理)に起因するものと考える

    そもそも、政府の国債発行をみて、将来の増税を予想して貯蓄を積み増すという家計や企業は少ないだろう。
    家計や企業の活動のスパンは、ほんの1,2年先であり、それ以上の未来が現在の行動や意思決定に影響する割合は、行動の決定要因のおそらく数%程度にすぎない。
    特に、不況下では、大半の家計や企業は、ここ1,2年を生きるのに精一杯であり、家計や企業が動員できるエネルギーや活動の99%がそれにつぎ込まれていると考える。これは、経済学者お好みの「競争の激しい市場」では当然のことだ。
    家計が、不況下で消費を抑制するとしたら、それは失業して所得を失い、低収入の職に就かざるを得なくなったり、残業が減ったり賃金の抑制によって所得が停滞、減少したりし、あるいはここ1,2年内の解雇の不安や、勤務先企業の倒産の不安が原因だろう。これらは、家計の意思決定に、未来の増税予想よりもはるかに大きな決定的とも言える影響を与えるはずである。「不況下」でセイ法則が成立していないとき、将来の増税に備えるといった悠長な問題に備える「余裕のある」家計は、極めて少ないと考える。

    企業も、不況下の「今」の需要低下を将来予測に折り込めば将来の需要低く見積もることになるが、それは設備投資の抑制の原因として十分以上に合理的である。一方、企業が合理的なら需要は確実に回復するという予想を持つのだろうか?しかし、そうした期待は、例えば、日本の長期停滞でも、リーマンショック後の先進各国でもことごとく否定されてきたのである。確実に回復するという理論的な根拠を示せる合理的な理論やモデルは存在していない。確実に回復するという予想こそ非合理であり、合理的に行動するなら、企業は設備投資を抑制するのが当然である。
    設備投資は、巨額の資金を固定させるのであり、極めてハイリスクである。金融取引などはリスクの高い取り引きもあるが、仮に失敗しても、逆に高い頻度でハイリターンの機会があり、損失回収できる余地がある。しかし、実体経済企業の設備投資は、極めてハイリスクである一方で。それを簡単に取り返すハイリターンの機会はない。不況下、特に日本のような長期停滞下、リーマンショック後の世界同時不況下ではリスクが高く需要も停滞しているのだから、なおのこと企業が保守的であるのは当然である。

    マクロ的中立命題(等価定理)のメカニズムで、リカード中立命題(等価定理)によって生ずるとされる現象を十分リーズナブルに説明できるのだから、リカードやバローの観点を重視する必要はないと思う。その観点が想定するメカニズムの影響は、ゼロとは言えないかもしれないが、極めて小さい。リカード中立命題が成立しているかどうかを検証しようとした研究が見出した証拠の大半は、リカードやバローのメカニズムによるのではなく、マクロ的中立命題のメカニズムによるものだと考える。

「負担の次世代先送り論」もナンセンスだから、「世代家計」もナンセンス

    以上のように、国債増発税と同様)「現在の」消費や設備投資が抑制されるのだから、「負担は現在の国民がしているのであり、負担は先送りされていない
・・・これは、もちろん「財政出動論25 リカード中立命題と負担の次世代先送論」と同じ結論である。

    マクロ的には負担の先送りがないのだから、世代間の負担の違いを考える世代会計マクロ経済では無意味である。無意味になる原因は、世代会計がマクロ経済(経済全体)ではなく、全体経済の一部分のみ(あるいは特定の波及の経路のみ)を抽出してモデル化し、論じているからだ。     つまり、世代会計は、本来折り込まれるべき、増税や国債発行のマクロ的波及のうちの重要な経路を見過ごしているのである。原因は、世代会計がミクロ(まあ、いわば「部分経済」)のモデルだからだ。

セイ法則が成立するときと成立しないとき

    ただし、以上は、セイ法則が成立ている場合(つまり、財・サービス市場、貨幣市場、債券市場などのそれぞれごとに「均衡が成立しいる場合《=各市場に需要不足や超過需要が発生していない場合》に、言えることである。セイ法則が成立していなければ、結論は変わる

        注)ここで均衡が成立し 」とは、必ずしも一般均衡を必要としない。一般
           とは、鉛筆、歯ブラシ、1500ccの乗用車といった個々の市場のそれぞれで
            (あるいはさらに細分化されたHBの鉛筆、2Bの鉛筆といった個々の市場の
            てでも、あるいはさらにそのそれぞれについて、さらにHBの鉛筆の例えば
            葉県エリアの市場や茨城県エリアの市場に細分化しても)すべての個々の市
            で均衡が成立していること(成立しなければならないこと)を言う。
                これに対して、セイ法則で要求されている均衡とはHBの鉛筆の市場や歯
            ブラシの市場などのどれかで需給が不均衡であってもよくて、それらの市場を
            すべて合算した)、財・サービス市全体として(財・サービスに関する全市場
            を合算して)需給が均衡していればよいという(ゆるい)均衡である。
                財・サービス市場全体として需給均衡が成立していれば、全ての財・サービ
            ス供給のための(付加価値)生産に際して(賃金、利子、配当などとして) 
            分配されたマネーが財・サービスの購入のために全て支出されることで、生
            れた生産物は、結局は全て売れるため、マネーはマクロでは、財・サービス
            産、配、販売に伴う取り引きで完結的に使われる。つまり、このとき
            サービスの取引等に使わるマネーにはータルでは(一的な入り
            として)不足は生ぜず、したがって、金融市場(貨幣市債券市場)
            の間にトールでの資金のやりとりは生じない
                このときに、政府が、増税や国債増発によって、民間のマネーの循環の中
            資金を(追加で)吸い上げれば、直ちに、財・サービスの取り引きの
            ために循環しているマネーの量は減少し、その分だけ、企業が生産した生
            物に支払われるマネーは減少する。これは一般に需要不足と認識される影響
            を生む。
              需要不足については、「New Economic Thinking 12 需要不足とは(←→需給均衡)」参照
             
                もっとも、政府が増税や国債増発で吸い上げた資金同額だけ公共投資や
            政府消費といった支出を増加させれば、一旦増税等によって政府に吸収され
            た資金(マネー)は再び民間の資循環に還流し、一応影響はなくなること
            になる。
                しかし、政府が「財政再建」のため 増税で得た収入の一部について
            制すれば、そうはならない。これは後述する。

     さて、に戻って、セイ法則が成立している上記の場合に対して、セイ法則が成立していない場合つまり、財・サービス市場で供給力が需要を上回る場合(=需要不足の場合を考えよう。このとき、供給のための生産に伴う分配、そして分配されたマネーの支出いう資金循環の中で需要不足の場合は生産物の購入に使われな資金マネー)が発生する。そして、その資金は、貨幣市場や債券市場に流入、滞留し、貨幣市場や債券市場に超過需要を生み出す。
    つまり、財・サービス市場で需要不足が発生すると同時に、貨幣市場や債券市場では貨幣や債券に(財・サービス市場の需要不足と同規模の)超過需要が生ずることになる。
    こうした理解は、ワルラス法則と整合的である。ワルラス法則とは、すべての市場の需要と供給を合算すると、需要と供給は均衡するという法則である。

         注)ワルラス法則は、しばしば(ワルラスの)一般均衡と混同されるが、まった
             く別のものである。一般均衡は、細分化された個々の市場のすべてで、需給が
             それぞれ均衡している必要があるが、ワルラス法則では、個々の市場に需給不
             均衡がどれだけあってもかまわない。それらの個々の市場をすべて合算したと
             きに全体として需要と供給が均衡していればよい。ただし、合算の対象となる
             市場は、財・サービス市場に含まれる市場だけでなく、労働市場、土地市場、
             貨幣市場、債券市場ありとあらゆる市場である。それらをすべて合算する
             と、需給は必ず均衡する。これは会計的にそうなる(セイ法則や一般均衡は
             成立すること実証的に証明する必要があるが、ワルラス法則は(定義によ
             って)恒等的に正しい)
                        ちなみに、合算の対象を財・サービス市場に含まれる市場に限定たのがセイ法則
                        対象市場を限定しているから、会計的には取り引きの可能性のある市場のうちの大き
                        部分を除外していることになる。したがって、これは恒等的に正しいとは言えない。
                        それが正しいかどうかは実証的に立証される必要がある。  
                 ワルラス法則が常に成立するのだから、財・サービス市場が需要不足なら
             の規模同じ規模だけ、他の市場例えば、貨幣市場や債券市場)には必
             ず超過需生じなければならない。 上記の不況の理解は、まさにワルラス
             法則どおりのことが生じていることを示す。 

    さて、ここで誤解が生じやすいのは、「貨幣市場の超過需要」である。今日では貨幣(=現金+預金)のほとんどは預金(預金通貨)である。このうち、現金需要の増加は、常に中央銀行が需要動向を見守り、無条件に供給するので、需要は満たされ続ける一方預金需要の超過とは、預金したいという需要が増加することである。しかし、現在金融機関は、預金したい人に対して預金の受入れを拒絶することはない。だから、預金貨幣の超過需要は、(金融機関の無制限の受入=「供給」拡大によって)常に満たされ続けていることになる(=需要が供給と一致していることになる)

    では、貨幣に超過需要がある徴候観察できないかと言えば、そうではない。まず、現金貨幣の場合、市中にあ現金残高が増加する。そもそも、中央銀行は常にそれを把握している。
   また、預金貨幣の場合は、金利が低下することで観察出来るのである。通常、金融機関は、預金を受け入れる際に預金者に支払う金利を提示した上で受け入れている金融機関にとって金利の支払いはコストであるから、常に低くしたいと考えている。預金したいという需要が多ければ、金利を引き下げてもいくらでも預金したい人がいる。だから、金融機関は、金利を引き下げても預金する人がいなくならない限り金利を下げていく。だから、預金したい人が多いとき(=預金したいという需要が超過しているとき)自然に金利は低下していく。つまり、預金金利の低下とは、預金需要の上昇(=預金通貨に対する超過需要)によって、預金の価値が上昇していることを示している
        注)金利は、中央銀行が任意に(経済にとって外生的に)設定できるという見
            方有力。もちろん、金融の引き締めが行われるときは、通常はかなり「任
            意に」設定できる。しかし、金融の緩和が行われるときは、その能力は制約
            され、金利の操作は、市場の資金需要の動向を無視して行うことは難しく、 
            操作できる金利は一定の範囲の中にまると考える。況下では消費や設備
            投資が減退し、貨幣需要(つまり、現金や預金を保有したいという需要)が
            昇するからだ。

    一方、「債券市場の超過需要」とは何かといえば、債券を求める需要が超過することである。この場合も(預金と同様に)、債券を発行する側は、金利を引き下げても債券を買う人がいくらでもいる状態だから、債券の発行金利は自然に低下していくし、売買の際には低い利回りの債券でも買う人がいるからやはり利回りも低下していく(=超過需要の発生で債券価格は上昇しているのである)。 

    つまり、財・サービス市場で需要不足があれば、財・サービスに関わる取り引きに使われる資金(マネー)の一部が貨幣・債券市場に流入ないしは滞留(つまり、貨幣・債券市場に《財・サービス市場の需要不足の規模に対応した》余剰資金が流入、滞留、両市場では(中央銀行が特に金融緩和政策をとらず、中立的政策をとっていたとしても)、自然に(貨幣市場と債券市場で金利は低下していくのである。

不況とき国債発行が民間経済に与える影響

    不況では、セイ法則が成立しない。このとき、財・サービス市場で需要不足が発生している。これは、(国内の民間需要をみると消費や設備投資等が不足していることを意味するが、このとき、上記のように、消費や設備投資として使われなかった資金(マネー)が、貨幣市場や債券市場に滞留ないしは流入している(注)

       注)誤解してはいけないことは、これは(強い金融引き締めが行われていない限
           り)貨幣市場や債券市場にマネーが滞留していることが原因で、財・サービ
           ス市場で需要不足が発生しているのではないことだ。財・サービス市場で需要
           不足が発生していることが原因で、貨幣・債券市場にマネーが滞留し、債券
           価格が上昇(=金利が低下)しているのだ。
               実は前者のように、財・サ市場の需要不足の原因が貨幣・債券市場にあると
            理解している人が多い。しかし、そうではない。・・・長くなるので説明省略。
           
    不況下で貨幣・債券市場にマネーが滞留し貨幣・債券に超過需要が生じているとき、そのマネーは、消費や設備投資には使われるあてのないマネーある。だからこそ、貨幣・債券市場に滞留しているのだからだ。
   つまり、現在のような不況時に政府が国債を増発してこうしたマネーを吸収しても、(国債増発の規模が、財・サービス市場の需要不足の規模を上回らない限り)それによって、民間経済主体の支出予算が新たに制約され、消費や設備投資抑制されることはない。 
    したがって、国債増発を原資とする財政出動にして次の点が言える。
    少なくともマクロ的中立命題(等価定理)のロジックでは国債増発による民間資金の吸収で、それが民間の設備投資や消費を抑制することはない。そもそも、消費や設備投資に使われない資金が貨幣市場や債券市場に流入、滞留しており、国債はそれによって買われるからだ。

《参考》以上から、「財・サービス市場で需要不足が発生しており、その需要不足の規模を超えない範囲で国債増発行われるなら」次のことが言える。

① クラウディングアウトは生じない。
    クラウンディングアウトとは、財政出動のための国債増発が、国内の金利上昇を招き、それによって民間の設備投資資金の調達が困難になり、それが国内需要を低下させ、財政出動の効果を相殺することを言う。
    しかし、不況のために国内使われない資金が潤沢であるため、国債増発による民間資金吸収は金利の上昇をもたらさない。このため、クラウディングアウトは生じない。
    なお「New Economic Thinking6 クラウディング・アウトは不況下では生じない」 も参照。

② マンデル=フレミング・モデルによる財政出動の無効化は生じない。
    マンデル=フレミング・モデルでは、(為替レートの変動相場制下の小国という条件下で)、政府が財政出動を行うために国債を増発すると、国内の資金に不足が生じて海外資金が流入する。海外資金の流入には、海外通貨を自国通貨に換える必要がある。このため、海外通貨売り・自国通貨買いが生じ、それによって為替レートが自国通貨高となって輸出が減少する。このため、輸出の減少による外需の減少が財政出動による内需の増加を相殺してしまう結果となる。
    しかし、国債を増発しても、上記のように国内の資金が不足することはないため、海外資金が流入することはなく、 こうした効果は発生しない。
    なお、「New Economic Thinking5 マンデル=フレミング・モデルは不況下では機能しない」参照。

不況下では「国債増発」と「増税」は等価ではなくなる

    以上のように、不況下つまりセイ法則が成立していない状況下で「財・サービス市場で需要不足が発生しており、その需要不足の規模を超えない範囲で国債増発が行われれる限り」、その国債を購入する民間資金は、消費や設備投資に使われる予定のない資金である。したがって、不況下での国債の増発は、民間の消費や設備投資に対する新たな予算制約を生じさせない。つまり、不況下での国債発行は、消費や設備投資を抑制しない
   不況下で発生した消費や設備投資に使われない資金を政府が国債発行して吸い上げ、政府の消費や公共投資として、財・サービス需要を創出している(=財政出動)。これは、政府が吸収しなければ、消費や設備投資として使われな資金なのである。 

    一方。これに対して、増税、課税対象などの制度設計にもよるが、一般に、民間の消費や設備投資資金としての使用を予定している資金にも一律に課税される。これは、民間の消費や設備投資を抑制する    なお政府が増税額と同額を公共投資や政府消費で支出増加)すれば、再び、資金は民間に還流し、民間減少した増税による消費や設備投資の減少と同規模の需要を政府が創り出すことになる 
    ただし増税が、財政再建のために使われてしまえ(財政再建とは、政府支出の増加分が増税による収入の増加額分より小さいということなので、その差額分の)資金は、財・サービス需要を創り出さず、増税分の需要への負の影響は残ってしまう。
    実際、2014年の8%への消費増税、社会保障費に使う目的を名目に行われたが、現実には、増税等による政府歳入の増加分の一定割合は、社会保障費の増額には充てられず実質的に財政再建のために、つまり政府債務の削減のために使われた。これ自体は、国債の償還の増加となって、民間に還流したが、それは元々民間に資金需要がないために)、消費や設備投資に使われる見込みのない資金であり、実際に消費や設備投資の増加には寄与しなかった。
    リカード等価定理根拠としていたメカニズムによれば、財政再建が進んだことで、家計や企業の将来の増税見通しは低下したはずであり、消費や設備投資は増加するはずだったが、そうした効果はなかったように見える。この消費増税で(それ実験とみなせば)、リカードやバローの見方は否定されたとみなせると考える。・・・少なくとも、彼らの主張は証明されなかった。このことは、これまで、一見、リカード等価定理を証明していたかに見えていた過去の実証結果は、マクロ的等価定理によるものであったことを示すと考える。すくなくともそのことは否定されなかった。

    ・・・以上の「国債増発」と「増税」を比較すれば明らかなように、「不況下では税と国債は等価ではなくなる」と言えると考える。

最後に

    なお、こうしたメカニズムと整合的な「経済の体系的な理解に関する新しい提案」行っているのが、
拙「New Economic Thinking2 資金循環とワルラス法則を基盤とする新たな体系」や「New Economic Thinking 10 マネーの二つの側面からみた日本国債のパラドックス

などであり、こうしたメカニズムの背景にある資金の流れをわかりやすく説明したのが、少し長が「New Economic Thinking11 需要不足・巨額国債発行と貨幣の循環~セイ法則不成立のとき何が起きているかである