財政出動論13《構造改革と米国》 財政出動論11《需要項目から大恐慌》
財政出動に効果がないという理論的な根拠としては、マンデル=フレミング効果やリカードの公債中立命題がある。ここでは(「重不況の経済学」327—329頁あたりでふれたのだが)、改めてリカードの中立命題について「財政出動論の立場」から整理してみよう。
改訂 H23.3.2若干追加。H23.4.21再修正。H23.6.7、H23.7.28若干補足、H24.2.23補足
なお、【財政出動論25(リカード中立命題と負担の次世代先送論)】の中段で、さらに本質的な
「別の」観点からの「リカードの公債中立命題」の解釈を書いています。25.10.23
さらにその後、これらの頁に関連して、次の頁を追加
New Economic Thinking 13 世代会計と等価定理
New Economic Thinking3 リカード中立命題とマクロ的中立命題
28.10.7 元に戻って、ここの頁の前段部分に注釈的にクルーグマンの中立命題の解釈を追加。
1 リカードの公債中立命題(等価定理)の既存の評価
リカードの公債中立命題について、小林慶一郎氏(キヤノングローバル戦略研究所研究主幹)は、「第二回 財政出動論の根拠はどこにあったか」(2009.09.15)の中で、
「ニューケインジアンの理論のなかでは「財政出動は無意味だ」というのが暗黙の共通認識になっている のである。
そのおもな理由は、現在の経済理論の枠組みのなかでは、財政出動の無効を主張する「リカードの中立性」命題に 対し有効に反駁できないからである。財政出動で政府がお金を使って国民の所得を増やしても、政府が使ったお金 は、将来、増税によって国民から取り上げられる。国民はそのことを見越しているので、財政出動をしても、国民 は将来の増税に備えて貯蓄を増やすため、消費や投資を減らしてしまう。結果として、財政政策が需要を拡大する効果は得られない。これが「リカードの中立性」である。
この議論は非常に強力であるため、世界中のほとんどのマクロ経済学者は、(少なくともリーマンショックの前までは)財政出動を学術研究のテーマとして論じることはなかった。」
と述べている。
これに対して、スティグリッツ(1943〜。2001年ノーベル経済学賞)は、「世情にうとい経済学者がよく持ち出し」…「全米の大学院で教えている”リカードの等価定理”…」については「まったくのナンセンス」(sheer nonsense)と評している(J.E.スティグリッツ[2010]『フリーフォール』徳間書店。115〜116頁)
そもそもリカードの公債中立命題自体は、直ちに財政出動の無効を意味するものではない。それは、「財政出動の財源を、直接の増税によって調達する場合と国債発行によって調達する場合の(財政出動の)効果にほぼ違いがない」ということを示すのみである。この定義に止まる限り、この命題は「非常に強力」である。実は、筆者もこれは支持する(拙著「重不況の経済学」の中心的議論はこれと整合的なのである)・・・・・・このレベルの命題の帰結に関しては、下の2の③で小野善康氏の議論を紹介する中で取り上げている。
それは、財政出動に「効果があるかどうか」に関しては中立である。増税と国債発行の効果には違いがないと言っているだけだからだ。財政出動に仮に効果があっても、この意味での中立命題と矛盾しないし、効果がなくても矛盾しない。つまり、リカードの中立命題のコア部分自体は、直ちに財政出動の無効を意味するわけではない。
ところが、一般には、上記の小林氏のように「政府が使ったお金 は、将来、増税によって国民から取り上げられる。国民はそのことを見越しているので、財政出動をしても、国民 は将来の増税に備えて貯蓄を増やすため、消費や投資を減らしてしまう。」という論理がリカードの公債中立命題の帰結として主張されている。
これこそ、スティグリッツがナンセンスとする議論だと考える。
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2016年10月7日追加
また、2016年9月2日付けの『himaginaryの日記』のエントリ「リカーディアンとリカーディアンもどきとFTPL」 の中で、次のように、Nick Roweやクルーグマンの考えとして前者を(「リカーディアン」の観点として)、また後者の観点をクルーグマンが「リカーディアンもどき」と評していることを紹介している。
「・・・これに反発したのがクルーグマンで、・・・それはリカードの中立命題の誤解釈によるものだ、と批判している。
以前のエントリ*1で小生(=himarinary氏:引用者注)は、巷間良く見られるリカードの中立命題の定義を
『財政支出をすれば民間が将来の増税を予想して消費をその分だけ減らし、総需要
は変化しない』
(また)Nick Roweやクルーグマンの考えるリカードの中立命題の定義を
『税金で賄われる財政支出と、借り入れで賄われる財政支出とは、等価である』
と対比させたことがあったが、・・
・・クルーグマンは、ロバート・ルーカスなども唱える前者のような議論を、リカーディアン(Ricardian)ではなくリカーディアノイド/リカー ディアンもどき(Ricardianoid)だ、と揶揄している。」
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ちなみに、「財政出動論3大恐慌期の金融政策の有効性」の中段より下の「3」で、バブル崩壊後の90年代の日本の金融政策に関して引用したアハーン(A. Ahearne)ら(2002)の論文《注》p.35でも、日本のバブル崩壊後の財政出動の効果に関して次のように整理している。
「公債の増加に関する懸念から消費が抑えられているとするリカード中立命題論者の議論は、日本の家計貯蓄率が90年代に低下していることで誤りであることが示された・・・実際に・・・初期90年代には収入の成長が低下しているにもかかわらず、消費支出は驚くほど維持されていた。」としている。
また、続けて「90年代前半の長期金利の相当な下落を考えると・・・民間投資をクラウド・アウトしたと見ることも困難」であり、同様の理由で「円高に寄与したということもありそうもない」としている。
注》いわゆるFed viewの有効性に関連して、バブル崩壊後の日本の金融政策に
ついてしばしばバーナンキらFRB首脳に言及された論文:
Alan Ahearne, Joseph Gagnon, Jane Haltmaier, and Steve Kamin "Preventing Deflation: Lessons from Japan’s Experience in the 1990s" Board of Governors of the Federal Reserve System International Finance Discussion Papers Number 729 June 2002
2 現実には、なぜリカードの中立命題による財政出動無効論が成り立たないと考えるか
そもそも、こうした財政出動の『理論的』無効の主張にもかかわらず、「財政出動に効果がある」ことは広く知られている。まさにスティグリッツが「世情にうとい経済学者がよく持ち出し」と言っているように、この主張が現実の経済で「完全には」成り立たないことは事実が証明している(ただし、部分的に成り立つかもしれないことまでは否定しない)。
以下、いくつかの仮定条件の下での思考実験としてではなく、財政出動の無効が現実に成立していると主張する立場に関して疑問点をいくつかあげてみよう。
(1)成り立たない理由として従来からあるもの
現実に「リカードの中立命題による財政出動無効論」(以下『中立命題論B』ということにする)が成り立たない理由として、簡単な理由を2、3挙げよう。
第1に、国民は経済学者が考えるほど賢くないので、《錯誤のため》財政出動で増えた所得を使ってしまうというのがある。
第2に、金持ちにはこれが当てはまるが、一般大衆には当てはまらないという議論がありうる。つまり、増税に備えて貯蓄しておかないと払えないほどの(巨額の税金を払わなければならないレベルの)金持ちには当てはまるが、一般大衆は、日々の生活に追われているから、将来の増税の心配まではできないということがあるだろう(特に、貧しいために消費性向が高く、収入を消費に使い切ってしまう、いわゆる「流動性制約家計」は日本でも2割前後を占める)。
注》これは、意外に重要かもしれない。極端に貧富の差が大きいとき、貧しい層の所得が生存可能なぎりぎり
の水準であったり下回ったりする場合、例えば、そうした人びとが予算制約の中で行う行動は、経済学が想
定する合理的行動とは、異なったものになる可能性がある。例えば、暴動、略奪などだ。あるいは、そこま
でではなくても、経済学的に合理的とは言えない行動が取られる可能性が高い。そうした人びとの割合が高
い社会は、経済的に非合理な行動、非経済的行動が選択される確率が高いように思える。
(2)中立命題論Bの前提そのものに問題があること
続いて、もう少し「本質的な」理由を挙げてみよう。①これが「成長のない経済」の仮定に依存していること。②「貯蓄」の扱いに問題があることの2点である。
① 中立命題論B自体が「成長のない経済」の仮定に依存していること。
重要だと考える点は、この中立命題論B自体の成立は、実質的に「成長のない経済」を前提としていることだ。(長期停滞下の日本のように)成長がなければ、たしかに公債で借り入れして財政出動したとしても、公債の償還時には、増税によって償還資金をまかなう必要がある。とすれば、単純にこの中立命題論Bは成立するとしてよいかもしれない(もっとも、上記の錯誤等の影響は小さくない)。
しかし、財政出動によって経済が成長し、国の経済規模が大きくなれば、税の自然増収で償還資金を得ることが出来る《例えば、財政出動論11の図5、図6参照》。
注》なお、不況からの回復時の自然増収については、財務省が使う
「税収弾性値」に問題があることは、「財政出動論5《交わらな
ない短期と長期》」の中段あたりで述べた。》
ここで「成長」を持ち出すことは、一見反則的な議論にみえるかもしれない。「成長がない」という条件は、単に問題を単純化するための仮定に過ぎない・・・・・・つまり検討の枠組みの外にある問題のようにみえるからだ。
だが、そうではない。「成長」という条件は、この中立命題論B成立の根幹、本質に係わっている。それは、中立命題論B成立のメカニズムが起動するための本質的条件(仮定)になっているのである。
そもそも、中立命題論Bは、家計が将来の国債償還をまかなうための増税を予測し、将来の(増税による)支出増を考慮して現在の消費や貯蓄行動を最適化するはずということを前提にしている。その結果、将来の増税に充てるために現在の所得を取り置く(貯蓄する)という家計の行動が生じ、家計は現在の消費を十分に増やさない(したがって、財政出動の効果はない)というのである。
ところが、経済成長があり、それによって将来の所得が、将来の増税をまかなう以上に増えると家計が予想していれば、家計は現在の消費を削る必要はないと考えるのが自然だろう。
成長がない場合は、確かに将来の生活費や必要経費を削って(つまり、現在よりも生活水準を低下させて)税を払うことになるが、成長で所得が増えればその必要はない。増える所得の一部を増税にあてれば済むからだ。こうした認識は、明らかに家計の行動に影響を与えるだろう。
これに関連して、成長に伴う税の「自然増収」は例えば「増税」ではないかと思うかもしれない。確かにGDPに占める税負担の比率は少し上昇する場合がありうる。しかし、所得が増加し、増加した所得の一部が納税の増加に回されるに過ぎないなら、納税した後でも可処分所得は増えている。家計は、増税であるかどうかではなく、可処分所得がどうなるかで判断するはずだ。
以上のように、成長があれば、税金を払っても納税後の所得は今より増えるのだから、今の生活費や消費を削ってまで「将来の増税への備えのために貯蓄する」理由はまったくない。これは明らかに、公債中立命題論Bが想定するメカニズムとは異なる家計(人々)の行動を生む。実際、われわれは「経済は成長するものだ」と考えている。したがって、仮にこのリカードの公債中立命題が「停滞する経済」では成立する余地があるとしても、「成長する経済」では、これは成立しないと言えるだろう。
注》もっとも、20年不況の中で生きてきた我々は、徐々に、経済は成長しない
ものだという考え方に慣れてきているのかもしれない。この意味で、まさに、
日本という特殊な国では、中立命題論が成立する条件が揃いつつあると言え
るかもしれない。それが日本の長期停滞の原因を再生産しているともいえる
のだ。残念であり皮肉なことだが・・・・。
「成長する」という条件は、合理的な経済主体の行動を変え、この中立命題論Bが機能するための本質的メカニズムを異なるものにしてしまうことになる。
したがって、『成長がない』という仮定で仮にこの中立命題論Bが成立するとしても、それを「成長がある」経済に拡張して適用することはできない。成長があるかないかは、この中立命題論Bが成立するメカニズムの根幹に係わっているからだ。
② 「貯蓄」問題
さて、そもそも、この中立命題に基づく財政出動無効論(中立命題論B)では、家計などが将来の増税に備えて「貯蓄」を増やすから、需要は増えないのだともいう。この「貯蓄」とはなんだろうか。この議論は、新古典派体系と整合性があるのだろうか。
新古典派体系では、通常、貯蓄されたお金は、金融機関などの貯蓄運用機関を通じて、設備投資等に貸し出され、それが需要となって、セイ法則が成り立つと考えられているのではないだろうか。
注)新しい古典派の代表といえるRBC理論や、そのRBC理論に基礎を置くニューケインジアン・モデル
では、財市場の均衡条件として、生産は《民間消費+民間投資+政府投資・消費》の合計に一致すると仮
定されている(=セイ法則の完全成立)。これは、貯蓄は金融機関からの貸出や社債への投資を通じた民
間投資(と国債購入を通じた政府投資・消費)によって使い切られると仮定されていることを意味する。
(もっとも、ニューケインジアンモデルでは、それに「価格の硬直性」などを導入することで、均衡から
の乖離をもたらす力が生じ、それによって経済変動が生ずると考える。)
仮に家計や企業は、将来の増税を想定して、増える収入を「貯蓄」の増加にまわすとしよう。すると、そのほとんどは、貯蓄運用機関に回されることになるのだ。
ここで重要な点は、家計や企業は、たしかに『将来の増税に対する備えとして貯蓄』する動機はあるかもしれないが、金融機関などの貯蓄運用機関には「増税に備えた貯蓄」を行う動機はないことだ。むしろ、貯蓄運用機関は、それをできる限り有利に運用しなければ、預金者に金利を払うことが出来ないから、常に積極的に貸出や運用をしようとする。したがって、金融機関に貯蓄された資金は全額が貸出や投資に回されることになる。その結果は需要増加になってしまう。
つまり、新古典派的には、需要は企業や家計の収入増加に応じて増加することになり、中立命題に基づく財政出動無効論(中立命題論B)は成立しないことになる(少なくとも、中立命題論Bが提示する「家計行動への影響を通じた財政出動無効論」は明らかに成立しないと言える)。
注)実際、RBC理論やニューケインジアンのDSGEモデルに、財政出動ショックを与えると、少なくと
も「財政出動が経済に(それがどんなものであれ)影響を与える」という結果はごくごく当たり前に導か
れる。
注)実は、ニューケインジアンモデルには、RBC理論が経済実態に合わない点を改善するために、家計に
一定割合の非リカード家計(流動性制約家計)を導入した研究もある。非リカード家計は、収入(増加)
の全額を消費に使い切ってしまう家計(貯蓄=0)であるから、この場合、そもそも中立命題論Bは成立
しない(そうした家計の割合分に関してだが)。
◎ 以上で「中立命題論B」に対する新古典派的な(+ニューケインジアン的な)観点からの疑問は終了である。次に、こうした主流派的な観点に若干「ケインズ的な」観点を加えて、もう少し考えてみよう。
ケインズは、収入のうちの一部がタンス預金になれば、その分が財の需要にはならないことを指摘した。そこで、問題は、将来の増税に備えて家計は「タンス預金」を増やすのかということになる。ところが、それは明らかに考えにくい。
仮に貯蓄を増やすとしても、それは将来の増税への備え分なわけだから、スケジュールもある程度はっきりしている。とすれば、それまでは「金融機関に預けて」運用益を稼ごうとするのが普通だろう。それは、新古典派的には、金融機関を通じて設備投資に流れ、需要を増加させることになる。この場合は、やはり中立命題論は成立しない。
(補足:資金の供給増があっても設備投資が増加しない可能性について)
以上のように、家計の貯蓄段階の原因では中立命題論Bは成立しないように見える。では、その先の金融機関から企業が借りて設備投資が増加するかという問題の部分ではどうだろうか。
たしかに企業が独自に需要の見通しを行い、その見通しがいずれも低いなら、金融機関が貸すといっても、企業側が設備投資を行おうとしないから、企業は資金を借りず設備投資は増えない。しかし、家計の貯蓄増で低コストの資金(次の③参照)が供給される一方で、政府の財政出動で具体的な需要増があるなら、その需要増に向けて設備投資は増えると考えるのが自然だろう。
注)ちなみに、お金が十分供給されれば、企業は、それを必ず全額借りて設備投資をするというのが標準的
な経済学者の見方である。上記注のRBC理論やニューケインジアンモデルの「財市場の均衡条件」に
「貯蓄」という項目が出てこないのは、そのこと(つまり貯蓄は必ずすべて設備投資等に使い切られると
いうこと)を条件として仮定しているからでもある。したがって、そうした人たち(中立命題論Bの支持
者たちも含まれる)に対しては、そもそも この補足や下の「(財政出動の方法による・・・)」のような検
討の必要もない。
(財政出動の方法による効果の差について)
ここで、例えば、政府の財政出動が「減税」や「一律の定額給付金」など家計の可処分所得を直接増加させる方法で行われる場合を考えよう。当然、家計は、その一部を貯蓄するが、平時であれば、上記のように、その貯蓄全額を企業が借りて設備投資するので、需要拡大効果は減ぜられない。
ところが、現在のような重不況下で、家計が失業不安に怯えているときには、家計は消費を拡大するよりも貯蓄を拡大する可能性が高くなる。企業が、こうしたことを予想に折り込み、家計が十分に消費を拡大させないと予想すれば、企業は(家計の貯蓄増加で資金が潤沢であるにもかかわらず)設備投資を増やさないことになる。
これは、一般に言われている中立命題論Bのルートとは異なるが、財政出動の効果を減ずる現象と言うことになる。
しかし、政府の財政出動を「公共事業」や「政府消費」の拡大で行う場合、それは、直接、企業の収入を増加させ、その収入増加額のほぼ100%近くが、賃金、原材料費、中間財の仕入れコストなどとして他の経済主体に支払われる。その企業に原材料や中間財を供給した企業も受け取った代金を同様に、コストとして100%近く支出する。つまり、政府の財政出動の大きな割合が直接循環していくことになる。
また、賃金を受け取る家計にとっても、仕事がないために失業の不安に怯えていたのが、仕事が現実に増加するのだから、仮に所得は増えなくても雇用不安は低下し消費支出にプラスに作用する。
(これに対して、上記のように、単なる減税や定額給付金には雇用不安を直接解消する効果はない。)
(3)調達資金問題
次に、中立命題Bとは異なる問題を考えよう。これは、コアなリカードの中立命題に係わる。
調達資金の問題は、小野善康氏が述べているもので、財政出動のための資金調達のために国債を発行すると、民間資金が吸収されるので、その分民間消費や投資が減少する。減少額は政府の財政出動額と同額なのだから、民間消費が減った分だけ財政出動が増えるに過ぎないので、財政出動の効果はないというものだ。
注》上記(2)②までは、財政出動の結果、増えた収入を家計などがどう使う
かに関する議論なのに対して、これは、財政出動のための資金調達に関する
議論ということになる。
このストーリーの問題点は、国債で吸収されなければ、その資金は元々は民間で消費や投資に使われるはずだったと考えられていることだ。これは、公債発行によるクラウディングアウトの議論にかかわっている。
しかし、そうした資金が消費や投資に使われていないからこそ、今の長期不況が生じていると考えるべきなのだ。その資金は貯蓄に回るが、貯蓄されても金融機関が代わりに「投資」するから、結局その資金も需要を作っているのだと考えるかもしれないが、そうではない。
『投資』には、『設備投資』と土地や株式などの証券投資等の『資産投資』がある。証券投資が新発社債や新規発行株式を対象にし、それが直ちに発行した企業の設備投資になるならよいが、単に既発社債等に投資されているだけなら、それは単なる価格上昇(変動)に吸収されるに過ぎない。
実際、新発債や新発株式の取引は、資産市場の取引のごくわずか(例えば、2007年の年間株式売買高は約750兆円だが、新規発行株式は2兆円ほどに止まる)でしかない。つまり、「設備投資」は、GDPの対象となる財の需要を作るが、「資産投資」のほとんどは、直接的には価格変動をもたらすだけで、GDPの対象となる財の需要にはならない。
つまり、資産投資にカネが流れているなら、それは、直接には需要不足を解消しない。現在のような重い不況では、企業の売上げの将来見通しが低いために設備資金需要が小さい(拙著「重不況の経済学」では、そうした状態を『重不況』と呼んでいる)。設備投資に使われない資金は資産投資に投入されるが、それは需要を形成しない。
それを政府が国債(公債)で吸収して、GDPの対象となる財の需要として支出するというのが財政出動論だ。
小野氏の議論は、次の3の(2)項でも再度若干詳しく取り上げる。
3 彼等はなぜ財政出動で景気回復しないと考えるのか
さて、 ここで注意したいのは、「リカードの中立命題が非常に強力だ」と主張する人々(以下「彼等」ということにする)は、財政出動によって、「経済成長が実現しない、あるいは景気回復はしない」と考えていることだ。
「彼等」がなぜ財政出動では景気回復しないと考えるかと言えば、彼等(ニューケインジアン、新しい古典派)が、基本的には需要不足が存在しないと考えているためだ。
(1)彼等の基本的視点
これは、ニュー・ケインジアンの理論が、新しい古典派の中心理論であるRBC理論(リアル・ビジネス・サイクル理論《実物的景気循環理論》)をベースにしているからだ。RBC理論は、セイ法則の成立を仮定している。つまり、需要と供給は常にバランスしていると考える。
ニュー・ケインジアンは、このRBC理論をベースにして、それに「価格の粘着性」などを導入することでRBC理論が仮定する市場の完全性などが崩れ、一時的には需要不足が発生すると考える。
しかし、ニューケインジアンは、そもそも基本的に新古典派経済学の系統に属し、新古典派(その中の新しい古典派、さらにその中のRBC理論)の理論を現実経済に当てはめるための「微調整」をおこなうために、最小限度の需要不足を認めるに過ぎない。その基本的な発想や思考は、供給を重視する「新古典派体系、RBC理論」の考え方や基礎的仮定に強く束縛されている。
(2)彼等の思考プロセス
彼等は需要不足がないか一時的なものと考えるから、財政出動で埋めるべき需要不足は存在しないし、財政出動分は需要超過となるから、物価は上昇するし、財政出動のための公債(国債)の発行で、本来は民間の設備投資に使われるはずだった資金が国に取られて民間資金が不足し金利が上昇する(クラウディングアウト)から、民間活動は縮小し、大きな政府ができるだけだと考える。また、金利が上昇するから、海外から資金が流入して、自国通貨高(円高)となり輸出が減少して、財政出動の効果はないと考える(マンデル=フレミング効果)。
この観点は、新古典派理論に(ニューケインジアンとは異なる)ケインズ的な観点を加味した「不況動学」を提唱する小野善康氏(管首相のブレーン。大阪大学教授)も同じだ。 以下は、拙著「重不況の経済学」328ー329頁のコピーである。
「小野善康氏は・・・リカードの等価定理(公債の中立命題)を引いて、国債
で資金を調達して公共事業を行っても、人々は国債償還のために将来増税され
ると予期して消費を増やさないので、公共事業は無意味だという(小野[2007]
『不況のメカニズム』75頁)。
しかし、実証的には、公債による財政出動の効果は、ある程度認められてき
ている。また、そもそも、リカードは、需要不足は存在し得ないという前提で
考えていたのである。確かに、小野氏は、第3章の「はじめに」で紹介した
ユージン・ファーマのように、セイ法則で需要不足は存在しないと考えている。
小野氏と辻広雅文氏の対談で見てみよう。
『(小野)・・・公共事業や失業手当として「政府があなたに100万円渡して
も、経済全体では100万円増えているわけではないからだ。政府は自らおカネ
を生み出せないので、誰かから100万円調達しなければならない。100万円もら
ったあなたは消費するだろうが、100万円取られた誰かは消費を控えてしまう。
………再分配は起こるが、全体で見れば差し引きゼロで消費が増えるはずがな
い。』(なお、小野[2007]にも同様の議論がある)
ここでの小野氏の議論は、「100万円取られた誰か」は、取られなければ、
その100万円を消費していたはずだということが前提になっている。そうだと
すると、そもそも需要不足はないから、不況にはなっていないはずだ。とこ
ろが、小野氏は政策的には需要不足対策を主張しているのだから、矛盾であ
る。
需要不足があるのは、誰かが消費していないからだ。その使われていない
100万円を政府が税か国債で吸収して、代わりに支出することで需要不足を解
消しようというのが財政出動の趣旨である。
なお、小野氏の議論の背景には、「資産投資」と「設備投資」の混同があ
るのかもしれない。貯蓄は、結局は、金融機関によって、全額が資産投資か
設備投資のどちらかに振り向けられるため、一見、すべてが「使われている」
ように見えるからだ。
しかし、設備投資が機械設備などの「需要」を生むのに対して、土地や株
式などの資産投資は、(特にその価格差分への投資は)資産価格の上昇を生
むだけで、実体経済の需要は生まない。」
も、経済全体では100万円増えているわけではないからだ。政府は自らおカネ
を生み出せないので、誰かから100万円調達しなければならない。100万円もら
ったあなたは消費するだろうが、100万円取られた誰かは消費を控えてしまう。
………再分配は起こるが、全体で見れば差し引きゼロで消費が増えるはずがな
い。』(なお、小野[2007]にも同様の議論がある)
ここでの小野氏の議論は、「100万円取られた誰か」は、取られなければ、
その100万円を消費していたはずだということが前提になっている。そうだと
すると、そもそも需要不足はないから、不況にはなっていないはずだ。とこ
ろが、小野氏は政策的には需要不足対策を主張しているのだから、矛盾であ
る。
需要不足があるのは、誰かが消費していないからだ。その使われていない
100万円を政府が税か国債で吸収して、代わりに支出することで需要不足を解
消しようというのが財政出動の趣旨である。
なお、小野氏の議論の背景には、「資産投資」と「設備投資」の混同があ
るのかもしれない。貯蓄は、結局は、金融機関によって、全額が資産投資か
設備投資のどちらかに振り向けられるため、一見、すべてが「使われている」
ように見えるからだ。
しかし、設備投資が機械設備などの「需要」を生むのに対して、土地や株
式などの資産投資は、(特にその価格差分への投資は)資産価格の上昇を生
むだけで、実体経済の需要は生まない。」
4 需要不足があると考えると
しかし、こうした彼等の予測・見通しはことごとく外れている。現実の日本経済は、次のように需要不足を考えた場合の予測に一致する。
「需要不足があるなら」、その需要に使われない資金が有効に使われないまま残っているから(財政出動論7《赤字の持続可能性》参照)、政府が国債を発行しても、一向に資金不足にはならず、金利も上昇せず(クラウディングアウトは発生せず)、金利が上昇しないから海外から資金が流入することはないから自国通貨高にもならず、逆に低金利で海外への流出が増え、そのために円安となって輸出が増加したのがリーマンショックまでの日本経済である。
すなわち彼等の理論は、まったく現実の経済を説明できなかったのに対して、需要不足を認めるとシンプルに経済の実態が理解できる。それは、たった一つ「需要不足がある」と考えるかどうかに係わっている。
RBC理論やニューケインジアンの理論(DSGE(動学的確率的一般均衡)モデル)が抱える本質的問題は、それらが、供給を中心に考えることを基本とするモデルであるということである。そこでは、コペルニクス以前の天文学者が「地球」を中心とする天動説の体系で惑星運動を説明しようと理屈をこねくりまわしたように、「供給」を中心とする経済学体系で現実を説明するために、理屈を「こねくり回している」だけだと考える・・・・。
注》例えば、ニューケインジアンが考える需要不足の原因すら、基本的に
は供給側の問題だ。例えば生産物市場では、たとえば価格の硬直性があ
るために、市場の価格調整ができず売れ残りが生ずると考えるのだが、
価格に硬直性があるのは売り手が値下げしないからだ。また、労働市場
では、賃金の下方硬直性が労働者の需要を減らすために失業が増加する
と彼等は考えるのだが、賃金を下げないのは労働の供給側の労働者の問
題だと彼等は考える。これらはすべて供給側の問題だ。
もちろん、こうしたことは事実ではある。しかし、すべてではない。
商品価格をいくら下げても消費者はいらないものは買わない場合がある。
例えば重い不況下で多数の消費者が雇用不安に怯えているときだ。
また、企業も、今の日本のように売上げ増加の見通しがないときには、
いくら賃金が下がっても労働者を新たには雇用しない(長期不況や大不
況下ではそうした消費者や企業の比率が高くなる・・・拙著『重不況の
経済学』では、こうした「 比率」の変化を「『斉一性』の変動という概
念で捉え、不況のメカニズムとして重視している)。
これは、すべて(商品については消費者、労働については企業という)
「需要側独自の原因」である。これらは、市場の価格調節機能を低下さ
せてしまう。こうした《誰でも実感できる》観点が、RBC理論を中心
とする新しい古典派やニューケインジアンの視点には抜けているのだ。
『抜けた視点で』「供給側の論理だけで」現状を説明するために理屈を
こねまわしているのである。
こうした彼等の視点の背景には、「消費者は常に商品を欲しい存在で
あるから、価格さえ下がれば必ず買うという仮定」(効用最大化原理)
や、賃金さえ下がれば「企業は売上げ(収益)を最大化させるために、
常に労働者の雇用を増やしたいものだという仮定」(収益最大化原理)
がある。
確かに、これらの仮定が正しいなら、問題は供給側だけにあることに
なる。新古典派経済学の体系は、こうした基礎的な仮定に基づいている。
ところが、上記のように「需要側に独自の原因が存在する」としたら
新古典派経済学は砂上の楼閣になってしまう。(つまり、これを認める
と、体系そのものがひっくりかえってしまう。)
これが、RBC理論やニューケインジアン理論に基づく現代の主流派
マクロ経済学が、軽微な景気循環はなんとか理論的に説明できても、今
回のような重い「世界同時不況」を理論的には予測できなかった理由の
一つだと思うのだ・・。
いずれにせよ、十分な規模の財政出動があれば、景気は回復し、経済成長
が行われるだろう。これは、財政出動論11《需要項目でみた大恐慌からの
回復》の末尾の図5、図6をみても明らかだと思うのだが。