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いまでも、日本の構造改革を主張する人たちがいるので、念のために少し整理してみよう。
1 構造改革の中核的な理論家たちは既に退出した
▲構造改革の根拠 となっていた諸仮説はほぼ実証されなかったからだ
1990年代末にhayashi & Prescot によって(RBC理論に基づいて)日本の1990年代の長期停滞・成長率低下の原因が生産性上昇率の低下(+労働時間の短縮)にあるという仮説が提出され、それは当時の日本の停滞をよく説明するように見えた。
そして、その生産性上昇率の低下を説明する仮説として、労働市場の歪み(で、成長分野に人材が移動できないという)仮説や金融市場の歪み(で、ゾンビ企業が人材と資金を吸収して成長分野に人材や資金が移動しないという(ゾンビ企業仮説を含む))仮説が提唱された。
それらは当時の日本の停滞をよく説明するように見えたため、そうした市場の歪みを是正する「構造改革」が必要だとされ、小泉内閣で構造改革が実施された。
ところが、その後、これらの仮説は、仮説提案者達自身を含む客観的な実証研究によって、ほとんど説明力がないことが証明されたし、それに替わる新たな仮説の提示もされなかった。
また、経済面でも小泉政権期の「構造改革」期間中に日本の成長率がまったく上昇せず、一人当たりGDPの順位にいたっては、小泉政権6年の間に、OECD諸国中で3位から19位まで一直線に低下した。理論面でも政策面でも、構造改革は実証されなかったのである。
(以上は、拙著「重不況の経済学」第1章で紹介した。このうち諸仮説の実証結果については、林文夫編[2007]『経済停滞の原因と制度』〈経済制度の実証分析と設計 第1巻〉,勁草書房 を中心に紹介している)
2 今構造改革を主張している人は事情を知らない追随者たち?
したがって、日本のマクロ経済学者で、当初、構造改革の必要性についての理論的基礎を提示していた理論経済学者たちのほとんどは、この問題からはすでに実質的に撤退している。成果が出なかったのだから、そのことを大々的に宣伝して撤退するわけもない。
見識のある経済学者たちはひっそり退出したので、構造改革の追随者たちには、それを知らない人が多い。いつのまにか「はしご」が外されているのに知らないままなのである。・・・いま構造改革を主張している人たちは、理論的根拠がなくなっていることを知らないまま主張している・・・と思うのだが。
なお、これは、「日本の長期停滞の原因、解決策」に関する限りにおいてである。供給に問題を抱える米国、ギリシャ、開発途上国などでは、供給側の問題を解決するために、構造改革は有効だろう。これは《構造改革論13(構造改革が必要なのは米国だ)》で論じた。
3 成長率の低下は断層的に急激に生じている
付け足しだが、日本の停滞が構造的な問題ではないことを簡単に別の側面から見てみよう。
▲日本の成長率低下は連続的に徐々に生じたのではなく断層的に急激に生じている
下のグラフ(図1)を見れば一目瞭然だが、日本の長期停滞つまり成長率の低下は徐々に連続的に生じたのではない。急激に断層的に生じている。変化は急激なのだ。
▲市場の歪みがこんなに急速に変化するはずがない
こうした急速な変化が、構造的な市場の歪みによっては生じ得ないことは明らかだ。生じるとすれば、市場の歪みが短期間に急速に大きくなったことになるが、それはあり得ないことだろう。
仮に、「歪みが急速に起きたとする」なら、その急速な歪みの原因を明らかにすべきだ。仮にそうした原因が存在するとしても、それは歪み論の外にあるだろう。当然、それは構造的な問題ではあり得ない。
ちなみに、この急速な変動の原因は、1991〜92年頃のバブルの崩壊だと見るのが自然だろう。
注》ついでながら、1970年代前半の成長率の急低下は、1971年のニクソンショックないしは1974年の第
1次オイルショックと関連があると考えるのが自然だ。
要するに、実証以前に、常識さえあれば、日本の成長率の低下(長期停滞)が構造的な問題によるものでないことは一見して明らかだったように思える。
図1
出所: 社会実情データ図録 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4400.htmlÅ (矢印を加筆)
ちなみに、1998年の落ち込みは、橋本財政改革による財政出動削減によるものと考えられるし、2001年の落ち込みは、小泉構造改革当初の財政出動削減(方針の提示)に係わるものと考えられる・・・・。
…もっとも、1990年代末で見ると下のグラフ(図2)のように、2000年以降の変化が見えなかったわけだから、成長率は「赤のトレンド線」のように変化しているように見えたかもしれない。とすれば「常識があれば」という上記の表現は少し言い過ぎかもしれない。しかし、この赤線の傾きも急激に過ぎることには変わりはない。
図2