拙著「重不況の経済学」(ちなみにアマゾン)は、日本の長期停滞を重要なテーマとしているが、これ(長期停滞)は短期の問題である。この本自体は基本的には短期の問題を扱っているのだが、この本の第2章、第5章はほぼすべてが、また第6章は過半が、さらに第4章もある程度は、長期の問題を扱っている。これは短期、長期の問題は相互に関連があるからだ。
ここでは、この「長期」の問題のうちの先進国の需要の問題を考える。
・・・《このブログ全体の目次》
後段部分に若干記述追加23.8.30-31。権丈先生からの引用を後段注に追加23.10.24
1 先進工業国の需要不足仮説
さて、拙著では「長期」に係わる仮説の一つとして、先進工業国では、様々な耐久消費財の普及率が上限に達する結果、耐久財の消費は更新需要が中心となるために需要不足が生じやすく、それは耐久財生産の設備投資の低下にも結びつき、結局、消費、設備投資の両面から、先進工業国では需要不足経済になりやすいと考えている。
(なお、これに対して開発途上国は様々な耐久財の普及率が低いために相対的に耐久財の需要が根強く、したがって、成長を続ける開発途上国は、常に需要圧力の強い経済(したがってかつての日本の高度成長期のように(?)常に供給不足気味の経済)となりやすいと考える)。
2 例外としてのアメリカ
しかし、実は、先進工業国の中でも米国だけは、需要超過、供給過少経済なのであり(それは米国の貿易収支がコンスタントに赤字であることからも理解できるだろう・・・この点については財政出動論13《構造改革が必要なのは米国だ》でもふれた)、この仮説では例外となっていたのだ。次のグラフのように、米国の民間最終消費はGDPの7割を占めており、日本よりも10ポイント以上も高い。
米国は製造業が競争力を失っているために設備投資が弱く、また政府の最終消費が小さい。だが、残る民間最終消費が根強いことは、米国経済が全体として長期にわたって貿易収支の赤字を続けてきていることで明らかだ。財(生産物)の需要が国内の供給力よりも強いから貿易収支が赤字になるのである。米国経済は、リーマンショックまでの過去20〜30年ほどは、消費を牽引力に、多少の変動を伴いつつも安定した成長を続けてきたのである。
注)ただし、貿易赤字が大きいために、多少民間最終消費は大きく見えているかもしれない。
図1
データ出所:国連統計部 National Accounts Main Aggregates Database なおデータは2007年のもの
3 先進工業国の消費需要(まあ内需)対策
こうしたことを受けて、(第6章では、先進工業国に必要な(長期的)経済政策の一つとして消費を拡大するいくつかの方策を提案しているが)、その中で、「需要の根強い米国には需要を刺激する制度がある」と考えられるから、それを研究すべきと書いている。
そして、その具体的な例として、米国の税制や文化には住宅投資を促進する仕組みがあることを上げている。これは、結局、今次のリーマンショックに係わる世界同時不況の原因となったものでもあるのだが、うまくコントロールできれば、先進工業国でも消費(+住宅投資)需要をコンスタントに刺激することが可能だと考えられる。
4 米国の医療制度
しかし、それだけでは、米国の強い需要を説明することは困難のように思っていたのである。巨額の軍事費もあるが、それは政府消費と固定資本形成に含まれれている。
・・・ということで、文化とか社会システムなどの影響かと思っていたのだが、今回もう一つ具体的な原因に気づいたので、ここでそれを掲げてみる。
それは米国の特殊な(?)医療制度である。
次の図2にみるように、米国の総医療費がGDPに占める比率は15.7%であり、日本の8%のほぼ2倍と先進国の中で突出して(異常に)高い。これは、米国の公的医療制度は主に高齢者や貧困家庭しか対象にしておらず、それ以外が民間医療保険によっていることなど米国の医療制度の特殊性と係わっている可能性が強い。
また、この米国の医療制度は、4千万人以上に上る無保険者を生み出している。我が国では、一応建前として、お金では治療レベルの差は生じない・・・違うのは、病室が豪華な個室〜6人部屋の違いとかの治療以外の待遇の差だけである。だが、米国では、お金の力が治療のレベル、そして生命を左右している。
いずれにせよ、米国の医療制度の特殊性が、こうした膨大な医療費を生んでいると考えられる。その結果、米国民は、多大な医療費を負担している。
図2
データ出所:世銀 World Development Indicators 2010 なお、データは2007年のもの
なお、「公的医療費以外の医療費」には、市販薬、紙おむつ、メガネや健康用品などが含まれている。米国以外の国々のそれの大半は、これらである。これに対して、米国の場合は大半が民間医療保険料の支払いや治療の際の保険対象外部分の自己負担、無保険者の治療費支払いなどである。
ちなみに、これをみれば、図1で、支出項目で見た米国の政府最終消費が低い理由がわかるだろう。米国が『小さな政府』に見えるのは、米国の医療保険制度が国民全体をカバーしていないからなのだ。
5 米国家計の消費支出に占める医療費
これを家計の消費支出で見たのが次の図3である。この図のように、米国の家計は、医療費として消費支出の約2割《日本の約5倍》をコンスタントに支出している。
医療費は、直接、間接に生命に係わるものだから、耐久消費財のように不要不急のものとして支出を抑えることはできない。実際、お金がなくてぎりぎりまで医療を受けないというような例も少なくないようだが、様々な支出項目の中での優先順位は極めて高いはずである。医療費が大きい分、他の項目を節約しているとしても、常に医療費は、消費に対して圧力となっている。
発病やけがは突発的であることも多いから、安くてよい病院を選んでいるひまもない。また、加入している民間保険が指定している医療機関で治療を受けなければならない。さらに、その際には保険の負担対象外部分(契約している民間保険毎に保険負担の対象が異なるし、査定もあるのが普通のようだ。高額な掛け金の保険であれば安心だが、一般家庭ではそうもいかない)は有無を言わさず家計が直接支払うことになってしまう。医療費は、計画的には抑制できない部分が大きい。計画的な抑制を行うとしたら、それは保険料の安い医療保険を選択するということになるが、それはカバーする疾病の範囲が狭いのが普通だ。
突発的だから、日常的には、保険料以外は考えずに他の消費を行っていて、医療が必要となると、医療保険の対象外部分が通常の支出の上に有無を言わさず上乗せされる。これは、特に4千万人超と言われる無保険者の場合に典型的だ。彼等は、現実の生活費に追われ、未来に対する備えとしての医療保険料には回せる資金がない状態で消費をしている《消費性向が高い》。また、無保険者に準じて保険対象範囲の狭い安い医療保険に加入している人々もこれに準ずる。彼等も、病気、けがになれば、否応なく医療費の支払いに直面する。
注)米国では虫垂炎手術は、ニューヨークでは243万円、ロサンゼルスで194万円(2000年AIU調べ。1ドル105円換算)
だという。なお、虫垂炎の手術は、他の国では少なくとも4,5日の入院が普通だが、米国では、ベッドの回転率を高める
ために、平均1日入院で退院させてしまう。
図3
データ出所:国連統計部 Statistical Yearbook, Fifty-third issue
なおデータの年次は、日、伊、仏が2007、加、独、米が2006、英が2005のもの
6 米国の消費構造とサービス業の生産性その他
① 消費水準
こうした必須性・突発性があり節約が困難な医療費支出が常に家計支出を押し上げており、米国の消費の水準が高い原因になっていると考えられる。
② 輸入の活用
また、この結果、食品・飲料・たばこ等、住居・水道・光熱費関係の支出が圧縮されており、こうした分野の多くで海外からの低廉な輸入品が活用されている可能性が強い。ドル高政策による輸入促進は、こうした現状に対する政策としても合理的である部分がある。
注)もちろん、ドル高政策は、金融立国にも不可欠でもある。
③ 米国の第3次産業の生産性の高さ
次に、医療費の突出は、米国の民間消費支出の中で「サービス」分野の割合を大きくしている。米国は、我が国に比べて第3次産業の「生産性」が高いが、これは、米国では第3次産業に占める医療分野の割合が非常に高いことが影響している可能性が高い。生命や激しい苦痛にかかわる費用は、現実に値切ることは難しいからだ。これが高付加価値を生み、米国の第3次産業の生産性を高くしていると考えられる。
注)もちろん、金融分野のウエイトが高いというのもあるだろうし、商業では、サービスの徹底した切り詰めというのもあ
るだろう。なお、米国の第3次産業の生産性の高さについては、《財政出動論13(構造改革が必要なのは米国だ)》で
一旦整理している。
④ 自由競争になじまない医療分野
米国の医療制度は、他の国よりも市場の競争性が高いとされるが、こうした状況を見ると、医療のような情報の非対称性の高い分野、かつ生命の危急にも係わり、治療ニーズの発生が家計から見ると間欠的かつ突発的なことが多く、その際にサービス分野の選択も自ら決定できない(脳腫瘍なのに消化器内科にかかるわけにはいかない。つまり代替性が弱い。)場合が多いし、危急の際に医療機関を選ぶ時間もない場合が多く《注》、加入している民間医療保険が指定する病院の利用が義務となるといった、利用者側の選択肢が狭い特殊なサービス分野(医療サービス)は、単純な市場競争にはなじまない可能性が強い。
注)例えば、利用者側が医療機関や担当医師の能力について十分な情報を持ちにく
いこと(情報の非対称性)、突発的で危急の場合には医療機関や医師を自由に選
択できないことなどは、市場競争を制約するため、自由競争市場では供給側が有
利になる。米国の総医療費の突出の原因は、こうした自由競争制度が根本にある
可能性が強い。
・・・「医療経済学研究者の間では、そもそも医療サービス市場には、市場
原理の大前提となっている、供給者の行動から独立した消費者の需要曲線
が存在しないという主張が有力だからです。 実は新古典派を含めて、大
半の医療経済学研究者が支持している「医師誘発需要理論(仮説)」は、原
理的には医療サー ビスの需要曲線の存在を否定するものです。1999年に
オランダ・ロッテルダムで開かれた国際医療経済学会(iHEA)第 2 回 世界
大会のハイライトとなった、「(医療の)需要曲線は廃棄されるべ きか?」
セッションでは、・・・しかも意外なことに、需要曲線の擁護派(新古典派)
も最後には需要曲線に基づいて現実の政策決定をするこ とはできないこ
とを認めました。」 23.10.24追加 24.1.17リンク修復ほか
この結果生じた高額の医療費は、低所得層の選択を限定し、それは、さらにこ
の分野の市場の自由な競争を阻害している。