2014年3月13日木曜日

財政出動論31 公共投資、設備投資の価値と三面等価

改訂:26.3.19 少し補足修正して取りあえず「暫定」版を解除。26.3.18 pm10 2の表の前に(「◎」以下二十数行)、このページで論じていることの意味をあらためて整理しました。26.3.18 2に表を追加+タイトル変更。26.3.17 従来の内容を1、追加の内容を2として、2(公共投資の性格の整理)を暫定的に追加しました。26.3.13pm4:45 わかりにくい点を大幅に加筆

1 小野・飯田説はNDP(国内純生産)で捉えれば整合的に理解できるか

藤井=飯田論争」について、 財政出動論30(三面等価の原則と付加価値と財政支出)2014-2-28では、公共投資で作られる付加価値はそれによって作られた施設の価値(=ほぼ使用価値)で測られなければならないという小野善康・飯田泰之先生の説はGDPやGDPの三面等価の原則、セイ法則と矛盾する(整合的でない)という指摘をした。(   注)なお、現在の公共投資の付加価値は、簡単に言えば事業額で算定されている。)

(1)小野・飯田説をNDP(国内純生産)で捉える
    この問題について、himaginary氏は、小野・飯田説がGDP体系と整合的でないように見えるという点を前提に、公共投資の価値がゼロということを、支出したその場で償却してしまうような投資である、と捉える」ことによって、小野・飯田説が(GDP(国内純生産)から固定資本減耗を除いた)NDP(国内純生産)で理解できること示している。
     himaginaryの日記「公共投資の付加価値がゼロになる時」2014-03-10
     himaginaryの日記「公共投資の付加価値がゼロになる時・補足」2014-03-11
        注)なお、ここで「公共投資の付加価値がゼロ」というのは、実際にそうである
            ことを主張されているわけではない。わかりやすくするために単純化している
            だけである(念のため)。

(2)なぜ一般に(NDPではなく)GDPが経済の理解に使われるか
    これ(himaginaryさんの解釈)によって、小野・飯田説の性格が改めて明らかになったように思う。こうした理解が正しいなら、小野・飯田説は現実経済の理解から遊離したものに思われる(もちろん、規範的な点では意味があるし、理論的な意味もあるかもしれない)。

    その意味は、なぜ我々が一般に、経済の理解にGDP(国内総生産)を使い、NDP(国内純生産)を使わないかを考えれば明らかだ。
    NDPでは、生産額のうち減価償却額に相当する額は、減価償却分と相殺されてカットされる(この結果、生産設備を含む資産の規模の変化と生産の関係が明確になる)。しかし、NDPには反映されないが、減価償却に相当する額の生産は行われ、生産設備は稼働し(稼働率は高く)、雇用も確保されている。(GDPはその状況を反映している)。

    例えば、(非現実的だが)生産額は変わらないが、仮に何らかの原因で減価償却が例年より一時的に増加したとしよう。すると、NDPはその増加分だけ縮小する。ところが、生産は、減価償却額の変化にかかわらず行われ、雇用も確保されていて、経済にはほとんど影響がない。
    減価償却の一時的な上昇で、企業部門の経常利益は一時的に縮小するが、キャッシュフローには影響がない。だから、企業の経営判断にもほぼ影響しない。生産にも影響がない。配当は一時的に減り株価も低下するかもしれないが、それは減価償却によるものだと理解されるだろう。
    配当の減少と株式価値の低下による負の資産効果はあるにしても、我々の生活にはほとんど影響がないし、企業部門の設備投資にもほぼ影響しない。

    つまり、NDPは、経済の活力や景気変動を正確には反映しないのである。その原因は、NDPがストック(減価償却資産)に注目しているからだ。生産(フロー)には十分注目していないのだ。

    これに対して(減価償却を含む)GDPは、生産の変動をそのまま反映する。そして、そこで生産された付加価値は各部門に分配され、それを使って各部門による需要が生じて企業の生産物が購入される。そうした所得循環がGDPによって把握できる。だから、我々は、通常は、経済の実態をよく示すGDPを使って経済を理解している。
    だから、価値の問題を処理するために、NDPを中心に経済を把握しようとすると、それは我々の経済実態の理解とは異なるものになってしまう。そうした選択をするだけの意味はあるだろうかというのが、第一の問題だ。

(3)NDPベースで小野・飯田説は整合的に理解できるか
     つぎに、公共投資の場合との関係を理解しやすくするために、 himaginaryの日記「公共投資の付加価値がゼロになる時・補足」で取り上げられている「民間企業の設備投資の付加価値がゼロ」のケースを追ってみよう。

    このページの表で、まず、企業が設備投資(民間企業投資)に100支出すると、雇用者報酬に100分配される。ここまでは正常だ。しかし、(公共投資のケースで価値がゼロだった場合と同様に)その企業の設備投資でできた生産設備の価値が仮にゼロだった場合を整理するのがこの表だ。このとき、その年度内に直ちに全額を減価償却して価値がなくなると考える。そこで、減価償却(固定資本減耗)に100を計上する。すると、支出(100)と分配(合計200)が一致しないから、営業余剰(まあ企業の利益)に▲100をたてて、両方を一致(両方とも100となる)させると理解する。
    つまり、企業の設備投資100で、家計の雇用者報酬は100増えるが、その設備投資に価値がなかったため赤字100となり、これは株主(家計)の負担に(最終的に)なると考えると、家計の所得は、雇用者報酬で100増えても株主配当で▲100だから差引ゼロとなる。これと同様のことが公共投資でも起こるというのがhimaginary氏の解釈だ。

        注)実際は、企業は、こうならないように、設備投資を精査して実施するから、
             企業の設備投資は効率的だというのが飯田先生だ。しかし、そうした企業の
             判断にしたがって、日本では設備投資が持続的に低迷しているのだ(=長期
            停滞)
                だから、需要不足は、効率の問題とは別次元の問題だと考えるべきだ。むし
            ろ、率を上げることで供給力が過剰となり、需要不足は強められる。需要不
            足下では、ある意味で効率を下げることが望まれるのだ(・・・)。
                日本の賃金が低かった高度成長時代は、国内が需要不足でも、効率性さえ高
            めれば、高賃金の欧米諸国との競争に勝って輸出によって需要不足を埋められ
            た。
                しかし、現在は、効率をいくら上げても、低賃金のアジア各国との競争に勝
            つことはできず、国内の需要不足を外需でカバーすることは難である
                だから、需要不足が恒常的に続く中で効率化を進めることは、さらに需要不
            足を拡大することになる。
                もちろん、これは、中長期的に、効率化が不要だという意味ではない。むし
            ろ、極めて重要だ。しかし、短期の目前のマクロ的な課題(需要不足)の解決
            には、効率は2次的な意味しかない。・・・さらに、もちろん、ミクロの個々の
            企業レベルでは、効率性向上に力を注ぐことは当然のことだ。ここで言ってい
            るのは一国の政策レベルの問題である。

    では、あらためて、こうした流れと同様のことが公共投資でも生じるのかを見てみよう。公共投資100で作られた施設等の価値がゼロなら、上の民間設備投資の例と同様、会計的にはその施設をその年度で一括して減価償却したのと同じと考えてもよい。すると、分配側で固定資本減耗(減価償却)に100が立つ。雇用者報酬と合わせると分配は200となる。このとき、企業の「営業余剰」のマイナスと同様な(200を100にする)ことが発生するかである。・・・しないと考えられる。

    なぜなら、通常、企業の設備投資は、生産に直結している。設備投資が終わらなければ生産できず売上も生じない。これに対して、公共投資で作られる施設は、(河川整備、砂防工事、治山工事、海岸浸食対策はもとより、道路や港湾などであっても)基本的には間接資本である。それが直接に生産を生み出すわけではない。したがって、公共投資には基本的に(民間の設備投資のように本質的に)「期限」がない

    したがって、仮にその価値がゼロであっても、そのゼロを埋めるために緊急に事業量を増やす必要はない。毎年のコンスタントな予算枠の中で、優先順位を決めて順に施行していくだけだ。工事の実施が順送りされるだけなのだ。・・・そもそも、現在はそうした価値評価を行っていないのだからこれは当然なのだが、仮に価値評価が行われてもそれは変わらない。
    したがって、公共投資の生成物の価値の変化にかかわらず、政府が、家計や企業に対して増税その他の新たな資金調達(公債発行)が行う必要もない(ここで、『増税』は、民間設備投資の場合における営業余剰の損失=株主(家計)負担に対応している)。・・・現実の公共投資は実際にそのように執行されているのだ。
        注)もちろん、オリンピックのための工事のように、期限があるものもある。しか
             し、そうしたものの割合は小さい。

   つまり、公共投資には、民間設備投資の場合のように、営業余剰(利益)のマイナスで家計負担が増加するのと同様のことは、現実には生じない(←公共投資の本質的性格にしたがって・・・このことが何を意味するかは・・・次の2で整理する)。(いずれにしても・・・)これは、そもそも現在は公共投資の価値評価をしていないのだから当然でもあるが、仮にそうした価値評価を行うような制度改正が行われても、これは変わらない。。
    したがって、このNDPによる解釈も、やはり三面等価の原則、ひいてはセイ法則に反するように思われる。

参考1 制度を変える意味はあるか
    もちろん、「公共投資に価値がなければ、その分を増税する」などといった、価値を実際の負担に一致させるような制度を作れという主張には規範的な意味はある。
    しかし、そもそも価値の評価は極めて難しいし、それは飯田先生自身が認めていることでもある。飯田先生は公共投資は過大評価されやすいとされたが、 財政出動論30(三面等価の原則と付加価値と財政支出)では、逆に過少評価されやすいことにもふれた。

参考2 需要不足下で重要なのは生産物の『価値』ではない
    付加価値に意味があるのは、財政出動論30(三面等価の原則と付加価値と財政支出)で述べたように、それが、需要を生み、その需要が生産を動かし、分配を経由して生産物の需要を生み出すからだ。

   これは、財政出動論30(三面等価の原則と付加価値と財政支出)の1の(5)で見た①の「公共投資の使用価値」(公共投資で作られた生産物の使用価値)と、②の「不況対策としての効果」(需要創出の効果)の区分で言えば、後者にあたる。前者①の「価値」ではない。

2 公共投資の性格の整理

    財政出動論30(三面等価の原則と付加価値と財政支出)と、このページの1(上記)では、藤井=飯田論争」に題材をとって、公共投資の付加価値に関する「小野=飯田説」は付加価値や経済成長に注目するあまりGDPの三面等価の原則セイ法則と矛盾するのではないかという観点で検討した。
    この検討の観点は、小野=飯田説がGDPがいわばストック面(生産基盤)を重視し、したがって長期を考えるのに対して、GDPのいわばフローの側面に注目し、したがって短期を考えるものだ
    三面等価の原則セイ法則は、基本的に、フローの側面(生産された財・サービスが購入されるが、その購入資金は財等の生産コストとして支払われた賃金などの資金が充当されるという形で生産と需要がマッチングし均衡するという側面《それによってGDPの三面等価が成立する》)に係わるものである。
        注)したがって、この検討は経済の「厚生の指標」としてのGDP指標のあり方
            を議論しようとするものではない。また、生産に係わる供給能力に対する関心
            は長期では重要だが、ここでは短期の経済循環を考えるのみである。つまり、
            ここで関心があるのは、GDPのフローの側面だけである。

さて、財政出動論30(三面等価の原則と付加価値と財政支出)では、三面等価が成り立つのはGDPのみである。したがって、公共投資の生産額から、いわば使用価値以外の分をカットするという小野=飯田説は、三面等価の原則も、セイ法則も満たさないと述べたわけだ。
    これに関して、himaginary氏は、(小野=飯田説のいう)公共投資のうち価値のない分を、工事の完成と同時に前倒しで減価償却すれば、NDPで三面等価が成り立つのではないかという提案をされた。
    このページの上の1は、それを検討している。まず、現在の国民経済計算の公共投資の扱いは、こうした前倒し償却を行っていないため、NDPでは生産額と分配額が不一致となり(NDPでは)三面等価の原則は成り立たない。現在の公共投資の計上方法で、三面等価が成り立つのは(減価償却分を含めて生産額を捉え、その額をそのまま分配額とする)GDPだけだ。
   それに対して、himaginaryさんの提案は、公共投資額のうち価値のない分を前倒し償却で一気に落とした結果を分配すれば、(価値のない分の付加価値をカットした)生産額と分配額が一致し、NDPで三面等価が成り立つというものである。
    そこで、鍵になるのは、生産面で価値のない分をカットした場合に、分配面でも同額がカットされるかである。これについて、himaginaryさんの提案では、設備投資の場合価値がなかった分を直ちに償却すれば、その減少分は営業余剰の赤字で吸収=それは結局株主たる家計がかぶる。すると、家計は生産の際に生産コストとして(雇用者報酬としての)賃金等を受け取っているが、その所得の増加は、(家計は株主でもあるから)この営業余剰の赤字分の家計負担によって相殺される。このプロセスにより、生産された額から価値がないとしてカットされた価値分は、分配額でも同額がカットされ、三面等価が成り立つというものである。
    これに対して、このページの上の1では、そのメカニズムは「設備投資」だからこそ成り立つのであり「公共投資」では成り立たないことを明らかにした。

    上の1では(「参考1」の5,6行上で)「・・・このことが何を意味するかは・・・次の2で整理する」と述べた。これは、設備投資、公共投資、最終需要などの特性が、こうした問題の理解に大きく影響することを意味する。そこで、この2では、これらの特性を以下で、簡単に整理しておこう。
    すなわち、「公共投資」が「設備投資」や「最終消費」とどのように異なるかをここで整理する。
   概要を整理すると、次の表のとおりである。ただし、この表は、あまりうまく説明しきっていないので、表の下でさらに、個別に整理しよう。したがって、この表は、比較の俯瞰を得るための参考程度ということになる。

(1)支出の原資の出所・帰着・その資金と支出の因果関係
    設備投資 設備投資の原資は、その設備投資で形成された生産設備で生産した製品の売上収入と考えてよいだろう。借入金で設備投資をして、製品の売上げで借入金を返済するのが普通だからである(株式出資金で設備投資した場合も、製品の売上げで配当を行い出資金の回収を行っていくことが想定されていると考えられる・・・等々以下省略)。
    したがって、設備投資その設備投資を行うための資金獲得(売上収入)には(その設備投資を行うことではじめて売上収入があるという意味で)因果関係がある

    最終消費 家計の場合を中心に考えれば、最終消費の原資は賃金などの所得である。
    したがって、消費を行う意思決定と、賃金収入の間には直接的な因果関係はない

    公共投資 政府が行う公共投資の原資は税収である(公債も税収で償還される)。税収は(短期では)公共投資の多寡とは因果関係がない
       注)長期では、リンクする部分があるかもしれない。しかし、河川整備や砂防事
           業をはじめとする防災事業は長期でもほとんどリンクしない。また、学校整備
           などを公共投資に含めると(政府予算上の公共事業には含まれないが公的資本
           形成にはつながる)、学校整備の経済成長に対する効果は疑問である。教育水
           準は成長には影響があるとされている。しかし、教育水準は必ずしも学校建設
           費の多寡とはリンクしていない。また、学校建設の主体である地方公共団体に
           とって、学校を整備しても、地方では卒業生の過半は、他の地域に流出する
           つまり、経済的要因は、学校建設のインセンティブを与えていない
    このように見ると、設備投資では設備投資とその設備投資資金の原資である売上収入が密接にリンクしているのに対して、公共投資は、最終消費と同様に、支出から支出の原資への因果はなく、両者はほぼリンクしていない
    もちろん、だからこそ、設備投資では、真剣にコストカットが行われ効率性が高い。

   ・・・ここが、もっとも重要な箇所だ。設備投資は、そのための支出の原資を、その設備投資でできた生産設備で生産した製品の売上げ収入で得る(回収する)というメカニズムを持っている。このために、設備投資の価値は、収入に直結し、設備投資費用の回収に直結している。
    これに対して最終消費と公共投資は、そのための支出の原資が、賃金や税であるために、最終消費や公共投資の実施したがって最終消費の価値や公共投資の価値とは、直接リンクしていない。この結果、設備投資の場合のように、価値がない分を償却するというプロセスが、現実の経済に影響を表すことがない。ただし、長期的には、(最終消費も!)一定のリンクはあるだろう。しかし、短期では、ない(ここでの長期、短期の意味については、表の注2の末尾参照)。「短期では」という意味は、三面等価やセイ法則はフローに係わるからだ=これは短期の問題だ。

(2)「価値がない」場合のリアクション
    価値がない場合に(1)の違いがどのような影響を与えるかを考えよう。「価値がない」原因としては、少なくとも2つの区分がある。

    第一は、支出によって得たもの(生産設備、消費財、公共施設)の機能が不十分である場合である。
    この機能が不十分である場合を、生産設備と公共投資で比較すると、公共投資に遜色があるとは思えない。むしろ、公共投資は過大投資が多い。これは過剰品質を生む。行政内部でも、民間基準で発注すればどれだけ安上がりになるだろうかという認識は常にある。ある設計業者は、一般に民間向けの設計と、行政向けの設計の考え方は結違う(コスト、安全性、質、各種基準の遵守など)と言っていた。
    民間では、コストカットが優先されるため、相対的には機能が不十分になりやすいだろう。「耐震偽装」はその一例である。
    機能が不十分で不満だった場合の対応は、設備投資、消費、公共投資間で基本的には変わりがないだろう。不満であり、必要であれば、追加投資や買い換えとなる。

    第二は、支出によって得たもののが利用されない場合である。飯田先生の「価値がない」というイメージは、これだろう。
    設備投資 himaginaryさんが「公共投資の付加価値がゼロになる時・補足整理されているように、そのままでは売上収入がないので、企業は通常緊急に追加投資が必要になる。したがって、追加投資のためにも、価値がない分を前倒し償却するのは妥当だろう。

    最終消費 利用されないのは不要なのだからそのままでよい。所得という予算制約の中で買えるだけのお金があれば(貯まれば)、別の代替消費財を買うだけである。前倒し償却したから、それが直ちに別の消費財の購入につながるわけではない。

    公共投資 これは、上記の1の(3)で述べたとおりであり、利用が少ないからと言って、慌てて追加投資を行わないと収入が減る訳でもなく(むしろ過剰投資になるだけ)、税収の範囲内で、次の公共投資がスケジュールに沿って坦々と行われていくだけである。したがって、前倒し償却する意味も必要性もない。仮に前倒し償却しても、それがそれ以後の公共投資の実施に影響を与えない(最終消費と同様)。

    このように、公共投資は、やはり「最終消費」に近い性格があり、「設備投資」とは性格的に隔たりが大きい。

(3)公共投資の性格
    以上の(1)(2)のように見てくると、公共投資の性格は、設備投資よりもむしろ最終消費の性格に近いようにすらみえる。もちろん、国交省をはじめ、建設関係者は、公共投資を積極的に「投資」と位置づけることによって、予算を獲得しようとしてきた。ここでは、それをひとまず置いておいて、あらためて、最終消費と公共投資の性格の類似性を整理してみよう。

① 経済的なニーズとそれ以外のニーズの調整(これには政治的なプロセスが不可欠)
    公共投資や設備投資と「最終消費」はどこが違うか、考えて見よう。

    最終消費に含まれるゲーム機は、購 入者の満足以外何も生み出さない。その満足に社会的な価値があるかは議論の余地がある。実際、有害かもしれない。最終消費とは、このように経済的な考慮をしていない支出が大部分を占めている
    しかし、それは確実に、購入者である消費者に満足を与える。消費財に要求されるのは、この消費者の効用(満足)だけである。このように、消費財の場合、個人がゲーム機を買うという判断には、それで経済的な効率を高めるとか、経済的な利益を得るといった考慮はない

    これに対して、設備投資財(生産財)が売れるかどうかは、製品の機能やデザインも重要だが、その設備投資で生産された製品が売れるかどうかに大きく係わっている。生産された製品が売れる見込みがなければ、設備投資は行われない。この意味で、設備投資の価値は純粋に経済学的な問題として取り扱うことが出来る

    公共投資はどうだろうか。設備投資のような経済的合理性のしばりがない部分が大きい。もちろん、道路整備などは経済的な効率性を目的に行われる場合もある。
   しかし、多くは、経済的な必要には単純には還元できないニーズ(=それは結局、政治的なニーズとして対応される)に従って行われる。
    例えば、河川事業は、50年に一度とか100年に一度の水害を防止するために行われる。事業が成功しても、発生するかどうかが不確実な水害の発生がないというだけである直ちにプラスの効用が生じることはない。成功しても、マイナスの程度を小さくするだけだ。
    したがって、将来は50年に一度の水害になってもよいから、道路の整備を先にしてくれという選択がありうる。道路の整備は、効果があるのであれば、ただちにプラスの効果が生じる。
    こうした河川事業と道路事業の選択では、何らかの仮定をおかずに両者を比較することはできないしかし、選択の結論はその仮定に依存する。とすれば、この仮定の選択そのものは政治的な選択によるしかないということである。

    道路事業を見ても、利用率の極めて低い道路はどこにでもある。しかし、その道路がなければ買い物にもいけない、救急車や消防車も入れないという地域がたくさんある。もちろん、それは住んでいる人の勝手だから、経済的な効率性に基づいて、それを切り捨てるという選択もある。
    しかし、育った地域で生活し続けたいという感情を考慮するという価値感もある。すると、経済的な価値感と後者の価値感とは単純には比較できない。比較するには、何らかの重み付けに係わる仮定を置く必要がある。そして、この複数の価値感のバランスの水準を選択するための条件・仮定の選択は、やはり政治によって行われるしかない。
        注)そうした多様な価値観を排除して、経済的な価値感のみを基準にすれば、
           日本の中で東京以外に住むにふさわしい地域はないことになるだろう。
   
    このように考えると、公共投資は、最終消費と同様な部分が大きい。最終消費では、その判断は、内心の価値感や判断基準に基づいて選択が行われる。この場合、内心だから見えないが、公共投資やそれを含む政府支出は、そうした異なる価値感を持った個人の間の調整が必要になる。こうした調整を解決するための制度が、政治的な制度である。
   異なる価値感は、政治的なプロセスを経て調整される。政治的過程は、こうした異なる価値感の間の調整を行うために必要とされる制度なのだ。
   もっぱら経済的判断だけで済む設備投資は問題がシンプルなのである。

    消費者内心の価値感にしたがってゲーム機を買おうと思うように、公共投資は、政治的な調整制度である「政府」がよいと思えばよいのである。その妥当性は「選挙」で評価される(もちろん、政治制度が、うまく機能しているとは言えないとは言えるだろうが)。

② (価値とは別に)需要を生み出す公共投資
    設備投資が、設備投資財の需要を生み出していることに問題はない。仮に、それによってできた生産設備に価値がなかったとしても、それが、設備投資財の需要を生み出したことは間違いない。しかし、himaginaryさんが「公共投資の付加価値がゼロになる時・補足整理されているように、結局、価値がなかった分は営業余剰のマイナスで相殺されるのであれば、確かに(価値のない設備投資に)意味はないかもしれない

    これに対して、最終消費で買われたゲーム機などの購入者に不満を与えたとしても、それが買われ、需要が生じ、生産が行われ、設備が稼働し雇用が確保されたことに間違いはない。ここで生じた需要の影響を相殺する要素はない。

   同様に、公共投資についても、それによって公共投資に係わる需要が発生し、生産が行われたことに間違いはない。上の1の(3)で見たように、これを相殺する要素はない

    つまり、需要を生み出す点で公共投資は最終需要と同じような機能をもっている。この公共投資と最終需要の二つについては、一旦行われた支出は、それに『価値』があろうとなかろうと、需要を作り出している点は変わらない。・・・それがGDPの三面等価、セイ法則を生み出すのである。

3 蛇足

    「公共投資」は、上でも述べたように、国交省をはじめ建設関係者が「投資」としての側面を強調しすぎたために、「設備投資」と同様にとらえられる傾向があるが、その本質においては、むしろ最終需要に近い
    公共投資の支出の判断は、最終需要が、ゲームやスポーツ、映画などに見られる「楽しみ」といった様々な、「経済性」とは無関係の目的で行われ、次の生産力の形成につながらないというのと同様の性格を持つ部分がある。この意味で、「設備投資」が生産力の形成とリンクしていること自体が特殊なのである(もちろん、この設備投資の性格・機能は、生産力の維持と成長をもたらす点で極めて重要であることは当然だ)。

    公共投資は、消防車や救急車が来てくれる道路があるとか、将来の生じるかどうかもわからないが洪水の恐れから守られる、あるいは子ども達をきれいな校舎で勉強させたいといった(単純には経済的効用には置き換えられないという意味での)非経済的な、あるいは生産力の形成に係わらない目的で行われる部分が小さくない。
    こうした意味で、「公共投資」には「最終需要」と同様の性格が含まれており、それは決して小さくない。そうしたものの供給は、市場メカニズムでは行われ得ないか、過小投資になってしまうから、政治的なプロセスで供給されているのである。
    もちろん、生産力を間接的に支える基盤としての機能を果たしている部分もある。しかし、そのウエイトは大きくはないし、何よりも「間接的」である。
   こうした点が、設備投資と公共投資の違いを生み出していると考える。