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財政出動論25 リカード中立命題と負担の次世代先送論
New Economic Thinking3 リカード中立命題とマクロ的中立命題
財政出動論12 財政出動とリカードの公債中立命題
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平成28年4月27日付けと28日付けの日本経済新聞の「経済教室」に「世代会計で考える」という論考が2つ掲載された。
27日付け:吉田 浩氏「世代会計で考える(上)消費増税延期、『将来』に重荷ー目先の負担減に警鐘」
28日付け:小塩隆士氏「世代会計で考える(下)『将来』との利害対立、深刻にー国民純貯蓄、ほぼゼロ」
これを機会に、あらためて、世代会計とマクロ経済の関係を整理しておくことにする。このページは、「財政出動論25 リカード中立命題と負担の次世代先送論」を「世代会計」を中心に整理し直し、光を当てたものになる。
結論的には、「世代会計」は、世代間の関係に視野が広がった点で価値はあるが、各時点の経済を見る視点は、部分経済に限られており、マクロ的な観点が弱い。こうした課題については、両先生も簡単に付言してはおられる。しかし、そもそもマクロ経済に影響する問題を考える際には、世代会計は使えないと考える。
世代会計は、ミクロ・・・つまり個々の企業や個々の家族に適用する(いわば「部分経済」を考える)場合には意味がある。しかし、マクロ経済・・・つまり例えば一国全体の経済に巨大な影響を与える問題(例えば日本経済の中で2割の規模を持つ経済主体である政府の問題)を考える場合には、意味がない。適用自体がナンセンスである。世代会計では、重要なマクロ的波及経路が脱落するからだ。
世代会計と等価定理
そもそも、世代会計をマクロ経済に適用する場合、いわゆる「等価定理(中立命題)」(これは、一般にリカード等価定理(中立命題)として知られている)を満たさなくなる。政府に世代会計を適用しようとする際に、この点が忘れられているのである。等価定理を満たすような条件で世代会計を、マクロ経済に巨大な影響を与える政府に適用すると、(世代会計の)価値は失われてしまう。
リカードの等価定理とは何かからはじめよう。ここで「等価」とは、「増税」と「国債増発」の等価を言う。
まず、「増税」である。政府が財政出動(公共投資や政府消費を増やす)を行う資金を得るために増税すると、増税によって民間経済主体の資金が吸収され民間企業や家計が使える資金が減少するため、予算の制約のために家計や企業は消費や設備投資を減らすことになり、それによって財政出動の効果は相殺されて意味がなくなってしまう。
これに対して、財政出動の資金を「国債の増発」で得る場合、民間の資金が減少するのは将来の国債償還のための増税の時点であり、それまでは消費等は減らないため、国債増発で財政出動する時点では、財政出動の効果がそのまま現れるように見える。
しかし、リカードやバローによれば、政府が景気対策などのために国債を増発すると、国民は政府がその国債の償還のために将来増税すると予想し、それに備えて納税に必要な資金をあらかじめ貯蓄してしまう。その貯蓄を行うには消費や設備投資を減らす必要がある。このため(将来を待たず)現在の時点で消費や設備投資が減少してしまう。したがって、政府が景気対策のために支出を増やしても、効果は民間消費や設備投資の減少と相殺され、景気対策(財政出動)の効果はない。
この意味で、税と国債が経済に与える影響は等価であるというのが、リカードの等価定理だ。
経済的(経済学的)な「負担」の定義と世代会計の「負担」観
さて、ここで 「負担」とは何かを考えておこう。負担というと「税負担」だけ(あるいは税+社会保険料の負担くらいまで)を考えがちだ。世代会計はまさにそう考えて議論をしている。これは、極めて素朴な「負担」観だ。そして、世代会計が、一見有効に見える理由の一つが、こうした素朴な「負担」の定義にある。つまり、世代会計はこうした素朴な「負担」の定義に依存している。
この定義に従えば、単純に、「課税」には「負担」があるが、「国債」引受(購入)には「負担」がないことになってしまう(注)。
この定義は、一般の常識に乗っているために、特定の素朴な「負担」に関する定義に世代会計が依存しているという認識すらないのだろうと思う。
注)後述するが、後述の経済学的な「負担」の定義では、国債の引き受けは 、
ミクロの家計や企業にとっては、たしかに「負担」がないとみなしてよいが、
マクロ的には「負担」があると言える。
経済学的に意味のある「負担」の定義を考えるために、 「税負担」とは何かを具体的に見てみよう。すると、課税によって、企業や家計が保有しているマネーのうちの税相当分(納税してしまった分)を、消費や設備投資に使えないということであることがわかる。「負担」とは、経済的には、結局、保有するマネーが何らかの理由(この場合は納税)で減少し、思った通りに使えない部分が生じるということなのだ。
これを、さらに一般的に書くと、「経済的な意味での『負担』とは、使えるマネーが減少する」・・・あるいは、「保有するマネーの使用に制約が生じ、思い通りに使えなくなる」ということである。これが「負担」の経済的な意味であると考える。
こうした「負担」の観点で、国債発行の場合を見てみると、リカードらの見方(等価定理)では、国債が発行された場合、家計や企業は将来の増税を予想し、それに備えて、消費や設備投資を抑制して貯蓄することになる。この場合、この貯蓄は将来の納税のために、現在は「使えない」のである。つまり、納税までの間、それは退蔵される(注)。これは、上記の「負担」の定義に適合する。つまり、負担は、将来の国債の償還時点ではなく、国債発行時点で生ずるのである。
このように「負担」を定義すると、リカードの等価定理では、国債の増発は、増税と同様、現在の民間経済に「負担」という影響を与える点でも「等価」になるのである。これにより、財政出動のための資金を得る方法が、増税であろうと国債増発であろうと、それによって民間で消費や設備投資に使える資金が減少するため、それが財政出動の効果を相殺する。つまり財政出動には効果がないという結論も出てくる。・・・もっとも、これはセイ法則が常に成り立つという前提でのみ成立する議論である(後述)。
注)なお、貯蓄の大半は金融機関に預けられ、金融機関を介して企業に貸し出
され、設備投資に使われるように見えるかもしれない。セイ法則が常時成立
すると主張する立場の経済学者もいるが、その根拠は、おおむね、こうした
点にある。
だが、不況下(需要が不足している状況)では、消費や特に設備投資の減
少が広く観察されている。このとき、同時に貨幣の流通速度の低下が観察さ
れる(※)。これは、財・サービスの生産、分配、支出に使われる貨幣の利
用(回転率=貨幣の流通速度)が減少しているのである。
※「財政出動論22 貨幣流通速度と不況期資金余剰」の図6,9、表1など参照)
これは、不況によって財・サービスの取り引きに使われる資金が金融機関
等に滞留し、設備投資に使われていないことを示す。
つまり、現実に、企業は需要が減少していると認識し、 設備投資の必要
を認めていない。したがって、金融機関に貯蓄が溢れていても、その貯蓄は
十分に設備投資には使われず(設備投資は十分に増加せず)需要は不足す
ることになる。
つまり、消費の落ち込みを設備投資の増加がカバーすることはない。不
況下で、セイ法則が成立しない状態が発生するのは主にこうした理由があ
ると考えられる。
これは現代経済学の基本的な考え方の一つ、つまり、不況で消費が減っ
ても、貯蓄が増加するため、金利が低下して設備投資が増え、それが消費
の低下をカバーして、需要は自動的に回復するというメカニズムが十分に
は機能していないことを意味する。つまり、そうした基本的な考え方は、
設備投資を左右する要因をあまりにも単純化しすぎていると考える。また、
それはリーマンショック後の日米欧の経済を十分に説明できているとは言
えない。
マクロ的中立命題(等価定理)
実は、上記のリカードやバローの「将来の増税を見越して、増税に対応する資金を貯蓄する」という企業や家計の行動が常に十分に実現するかどうかには疑問もある。しかし、そうした将来の予想や「期待」といった不確実なメカニズムによらずとも、等価定理(中立命題)は当然に実現する。
これについては、すでに「財政出動論25 リカード中立命題と負担の次世代先送論」でも述べたが、中立命題(等価定理)のメカニズムとして、リカードやバローのように、将来の増税予想による現在の消費抑制を考える必要はない。セイの法則が成り立つなら(この意味は後段で説明する)、 それだけで、増税と国債増発は等価になる。
そうなる理由は、増税も国債も、民間資金を吸上げ、民間経済主体の消費や設備投資のその時点の予算を制約する点でマクロ的に変わりがないからだ。
一見、国債発行の場合、国債を購入した家計や企業は、マネーのかわりに国債という資産を保有しているのであり、消費や設備投資の必要を感じれば、その資産(国債)を売却すれば直ちに必要なマネーを使えるように見える。とすると、国債を売却すれば、消費・設備投資は可能なのだから、国債の購入、保有は(消費や設備投資の)予算の制約にはなっていないように見えるかもしれない。ミクロでは確かにそうだ。国債という資産は、換金性や流動性では、現金や預金には若干劣るが、他の資産に比較すれば、現金や預金(普通預金)つまり貨幣に近い資産である。それを貨幣に交換(国債を売却して貨幣を受け取る)すれば、消費や設備投資に自由に使え、違いがないように見える。
だが、マクロでは異なる。国債を売却するには、それを買う他の企業や家計が存在しなければならない。売却した企業や家計の予算制約はたしかに解消されるが、それを買った企業や家計は、新たに消費や設備投資の予算が制約される(注)。つまり、マクロ的にみると、民間経済主体(企業や家計)間で、国債保有による消費や設備投資に関する予算の制約は別の企業や家計などの(別の)ミクロの経済主体に引き継がれるだけで消滅することはないのである。ミクロでみると、国債は自由に貨幣に交換でき、それを消費→設備投資に自由に使えるが、それは、消費や設備投資をしない別のミクロの企業や家計が、それを買ってくれるからだ。マクロ経済をある一時点で切り取ると、消費や設備投資をしない家計や企業が常に存在し続けているのである。これが、ミクロとマクロの違いである。・・・「ミクロ的基礎付け」が過剰に意識されてきた結果か、このことがわかっていない経済学者、エコノミストは少なくない。
注)これは国内の民間経済主体が購入することを前提としている。主な例外は
は2つである。
一つ目は、中央銀行が、転売された国債を買う場合である。このとき、
中央銀行は経済的には政府の一部とみなせるから、民間経済への影響は政府
が国債を償還したのと同じになる。この場合、民間経済全体としての予算
制約は解消される。
ちなみに(後述するが)重い不況下では、民間経済主体は、企業は将来の
需要不足の予想やリスクの増大、また家計は雇用不安のために、設備投資や
消費を抑制しているから、民間の予算制約が解消されても、そのマネーは使
われず、マネーは金融市場に滞留を続ける。
二つ目は、海外の経済主体が国債を買う場合である。この問題につ
いては「財政出動論25 リカード中立命題と負担の次世代先送論」参照。
・・・いずれにしても、わが国は、経常収支がほぼコンスタントに黒字である
ため、資本は常に海外への流出超過 (日本は海外へ資本をコンスタントに
流出させるほど国内資金が潤沢であることを意味する)であり、海外資金
に依存する前提の議論は、あまり意味がない。
したがって、国債の増発も、増税と同様に、民間の消費や設備投資の予算を制約する点で変わりがない。これは、将来の国債償還時点の増税予想や期待とは無関係に生じることに注意しよう。つまり、将来の増税予想(「期待」)がなくても、増税と国債増発は、民間経済への影響は等価であるといえる。
リカードやバローの考える『期待』メカニズムとは異なる、マクロ的な予算制約によるメカニズムで、増税と国債増発は「等価」になる。 だから、「財政出動論25 リカード中立命題と負担の次世代先送論」では、「リカードの中立命題」と区別して、これを「マクロ的中立命題(ないしは等価定理)」と呼んでいる。
「マクロ的中立命題(等価定理)」の観点から見た「リカード中立命題(等価定理)」
リカードやバローの観点はどの程度正しいのだろうか。
リカードの等価定理がもたらす状況(=消費や設備投資が減少し、貯蓄が増えること)は、マクロ的中立命題(等価定理)のみで十分合理的に説明できる。マクロ的中立命題は、あやふやな「期待」などに依存せず、会計的なレベルで説明するのである。リカード中立命題について観察されたとされてきた経済現象の原因の大部分は、マクロ的中立命題(等価定理)に起因するものと考える。
そもそも、政府の国債発行をみて、将来の増税を予想して貯蓄を積み増すという家計や企業は少ないだろう。
家計や企業の活動のスパンは、ほんの1,2年先であり、それ以上の未来が現在の行動や意思決定に影響する割合は、行動の決定要因のおそらく数%程度にすぎない。
特に、不況下では、大半の家計や企業は、ここ1,2年を生きるのに精一杯であり、家計や企業が動員できるエネルギーや活動の99%がそれにつぎ込まれていると考える。これは、経済学者お好みの「競争の激しい市場」では当然のことだ。
家計が、不況下で消費を抑制するとしたら、それは失業して所得を失い、低収入の職に就かざるを得なくなったり、残業が減ったり賃金の抑制によって所得が停滞、減少したりし、あるいはここ1,2年内の解雇の不安や、勤務先企業の倒産の不安が原因だろう。これらは、家計の意思決定に、未来の増税予想よりもはるかに大きな決定的とも言える影響を与えるはずである。「不況下」でセイ法則が成立していないとき、将来の増税に備えるといった悠長な問題に備える「余裕のある」家計は、極めて少ないと考える。
企業も、不況下の「今」の需要低下を将来予測に折り込めば、将来の需要を低く見積もることになるが、それは設備投資の抑制の原因として十分以上に合理的である。一方、企業が合理的なら需要は確実に回復するという予想を持つのだろうか?しかし、そうした期待は、例えば、日本の長期停滞でも、リーマンショック後の先進各国でもことごとく否定されてきたのである。確実に回復するという理論的な根拠を示せる合理的な理論やモデルは存在していない。確実に回復するという予想こそ非合理であり、合理的に行動するなら、企業は設備投資を抑制するのが当然である。
設備投資は、巨額の資金を固定させるのであり、極めてハイリスクである。金融取引などにはリスクの高い取り引きもあるが、仮に失敗しても、逆に高い頻度でハイリターンの機会があり、損失を回収できる余地がある。しかし、実体経済企業の設備投資は、極めてハイリスクである一方で。それを簡単に取り返すハイリターンの機会はない。不況下、特に日本のような長期停滞下、リーマンショック後の世界同時不況下ではリスクが高く需要も停滞しているのだから、なおのこと企業が保守的であるのは当然である。
マクロ的中立命題(等価定理)のメカニズムで、リカード中立命題(等価定理)によって生ずるとされる現象を十分リーズナブルに説明できるのだから、リカードやバローの観点を重視する必要はないと思う。その観点が想定するメカニズムの影響は、ゼロとは言えないかもしれないが、極めて小さい。リカード中立命題が成立しているかどうかを検証しようとした研究が見出した証拠の大半は、リカードやバローのメカニズムによるのではなく、マクロ的中立命題のメカニズムによるものだと考える。
「負担の次世代先送り論」もナンセンスだから、「世代家計」もナンセンス
以上のように、国債増発も(増税と同様)「現在の」消費や設備投資が抑制されるのだから、「負担は現在の国民がしているのであり、負担は先送りされていない」。
・・・これは、もちろん「財政出動論25 リカード中立命題と負担の次世代先送論」と同じ結論である。
マクロ的には負担の先送りがないのだから、世代間の負担の違いを考える世代会計はマクロ経済では無意味である。無意味になる原因は、世代会計がマクロ経済(経済全体)ではなく、全体経済の一部分のみ(あるいは特定の波及の経路のみ)を抽出してモデル化し、論じているからだ。
つまり、世代会計は、本来折り込まれるべき、増税や国債発行のマクロ的波及のうちの重要な経路を見過ごしているのである。原因は、世代会計がミクロ(まあ、いわば「部分経済」)のモデルだからだ。
セイ法則が成立するときと成立しないとき
ただし、以上は、セイ法則が成立している場合(つまり、財・サービス市場、貨幣市場、債券市場などのそれぞれごとに「均衡が成立し」ている場合《=各市場に需要不足や超過需要が発生していない場合》)に、言えることである。セイ法則が成立していなければ、結論は変わる。
注)ここでの「均衡が成立し 」とは、必ずしも一般均衡を必要としない。一般
均衡とは、鉛筆、歯ブラシ、1500ccの乗用車といった個々の市場のそれぞれで
も(あるいはさらに細分化されたHBの鉛筆、2Bの鉛筆といった個々の市場の
全てでも、あるいはさらにそのそれぞれについて、さらにHBの鉛筆の例えば
千葉県エリアの市場や茨城県エリアの市場に細分化しても)すべての個々の市
で場均衡が成立していること(成立しなければならないこと)を言う。
これに対して、セイ法則で要求されている均衡とは(HBの鉛筆の市場や歯
ブラシの市場などのどれかで需給が不均衡であってもよくて、それらの市場を
すべて合算した)、財・サービス市場全体として(財・サービスに関する全市場
を合算して)需給が均衡していればよいという(ゆるい)均衡である。
財・サービス市場全体として需給均衡が成立していれば、全ての財・サービ
ス供給のための(付加価値)生産に際して(賃金、利子、配当などとして)
分配されたマネーが財・サービスの購入のために全て支出されることで、生産
された生産物は、結局は全て売れるため、マネーはマクロでは、財・サービス
の生産、分配、販売に伴う取り引きで完結的に使われる。つまり、このとき
財・サービスの取引等に使われるマネーにはトータルでは(一時的な出入り
は別として)過不足は生ぜず、したがって、金融市場(貨幣市場や債券市場)
との間にトータルでの資金のやりとりは生じない。
このときに、政府が、増税や国債増発によって、民間のマネーの循環の中
から、資金を(追加で)吸い上げれば、直ちに、財・サービスの取り引きの
ために循環しているマネーの量は減少し、その分だけ、企業が生産した生産
物に支払われるマネーは減少する。これは一般に需要不足と認識される影響
を生む。
※需要不足については、「New Economic Thinking 12 需要不足とは(←→需給均衡)」参照
もっとも、政府が増税や国債増発で吸い上げた資金と同額だけ公共投資や
政府消費といった支出を増加させれば、一旦増税等によって政府に吸収され
た資金(マネー)は再び民間の資金循環に還流し、一応影響はなくなること
になる。
しかし、政府が「財政再建」のため、 増税で得た収入の一部について支出
を抑制すれば、そうはならない。これは後述する。
さて、本題に戻って、セイ法則が成立している上記の場合に対して、セイ法則が成立していない場合、つまり、財・サービス市場で供給力が需要を上回る場合(=需要不足の場合)を考えよう。このとき、供給のための生産に伴う分配、そして分配されたマネーの支出という資金循環の中で、需要不足の場合は、生産物の購入に使われない資金(マネー)が発生する。そして、その資金は、貨幣市場や債券市場に流入、滞留し、貨幣市場や債券市場に超過需要を生み出す。
つまり、財・サービス市場で需要不足が発生すると同時に、貨幣市場や債券市場では貨幣や債券に(財・サービス市場の需要不足と同規模の)超過需要が生ずることになる。
こうした理解は、ワルラス法則と整合的である。ワルラス法則とは、すべての市場の需要と供給を合算すると、需要と供給は均衡するという法則である。
注)ワルラス法則は、しばしば(ワルラスの)一般均衡と混同されるが、まった
く別のものである。一般均衡は、細分化された個々の市場のすべてで、需給が
それぞれ均衡している必要があるが、ワルラス法則では、個々の市場に需給不
均衡がどれだけあってもかまわない。それらの個々の市場をすべて合算したと
きに全体として需要と供給が均衡していればよい。ただし、合算の対象となる
市場は、財・サービス市場に含まれる市場だけでなく、労働市場、土地市場、
貨幣市場、債券市場等ありとあらゆる市場である。それらをすべて合算する
と、需給は必ず均衡する。これは会計的にそうなる(セイ法則や一般均衡は
成立することを実証的に証明する必要があるが、ワルラス法則は(定義によ
って)恒等的に正しい)。
※ちなみに、合算の対象を財・サービス市場に含まれる市場に限定したのがセイ法則。
対象市場を限定しているから、会計的には取り引きの可能性のある市場のうちの大き
い部分を除外していることになる。したがって、これは恒等的に正しいとは言えない。
それが正しいかどうかは実証的に立証される必要がある。
ワルラス法則が常に成立するのだから、財・サービス市場が需要不足なら、
その規模と同じ規模だけ、他の市場(例えば、貨幣市場や債券市場)には必
ず超過需要が生じなければならない。 上記の不況の理解は、まさにワルラス
法則どおりのことが生じていることを示す。
さて、ここで誤解が生じやすいのは、「貨幣市場の超過需要」である。今日では貨幣(=現金+預金)のほとんどは預金(預金通貨)である。このうち、現金需要の増加は、常に中央銀行が需要動向を見守り、無条件に供給するので、需要は満たされ続ける。一方、預金需要の超過とは、預金したいという需要が増加することである。しかし、現在、金融機関は、預金したい人に対して預金の受入れを拒絶することはない。だから、預金貨幣の超過需要は、(金融機関の無制限の受入=「供給」拡大によって)常に満たされ続けていることになる(=需要が供給と一致していることになる)。
では、貨幣に超過需要がある徴候が観察できないかと言えば、そうではない。まず、現金貨幣の場合、市中にある現金残高が増加する。そもそも、中央銀行は常にそれを把握している。
また、預金貨幣の場合は、金利が低下することで観察出来るのである。通常、金融機関は、預金を受け入れる際に預金者に支払う金利を提示した上で受け入れている。金融機関にとって金利の支払いはコストであるから、常に低くしたいと考えている。預金したいという需要が多ければ、金利を引き下げてもいくらでも預金したい人がいる。だから、金融機関は、金利を引き下げても預金する人がいなくならない限り金利を下げていく。だから、預金したい人が多いとき(=預金したいという需要が超過しているとき)自然に金利は低下していく。つまり、預金金利の低下とは、預金需要の上昇(=預金通貨に対する超過需要)によって、預金の価値が上昇していることを示している。
注)金利は、中央銀行が任意に(経済にとって外生的に)設定できるという見
方も有力。もちろん、金融の引き締めが行われるときは、通常はかなり「任
意に」設定できる。しかし、金融の緩和が行われるときは、その能力は制約
され、金利の操作は、市場の資金需要の動向を無視して行うことは難しく、
操作できる金利は一定の範囲の中に留まると考える。不況下では消費や設備
投資が減退し、貨幣需要(つまり、現金や預金を保有したいという需要)が
上昇するからだ。
一方、「債券市場の超過需要」とは何かといえば、債券を求める需要が超過することである。この場合も(預金と同様に)、債券を発行する側は、金利を引き下げても債券を買う人がいくらでもいる状態だから、債券の発行金利は自然に低下していくし、売買の際には低い利回りの債券でも買う人がいるからやはり利回りも低下していく(=超過需要の発生で債券価格は上昇しているのである)。
つまり、財・サービス市場で需要不足があれば、財・サービスに関わる取り引きに使われる資金(マネー)の一部が貨幣・債券市場に流入ないしは滞留(つまり、貨幣・債券市場に《財・サービス市場の需要不足の規模に対応した》余剰資金が流入、滞留)、両市場では(中央銀行が特に金融緩和政策をとらず、中立的政策をとっていたとしても)、自然に(貨幣市場と債券市場で)金利は低下していくのである。
不況のとき国債発行が民間経済に与える影響
不況では、セイ法則が成立しない。このとき、財・サービス市場で需要不足が発生している。これは、(国内の民間需要をみると)消費や設備投資等が不足していることを意味するが、このとき、上記のように、消費や設備投資として使われなかった資金(マネー)が、貨幣市場や債券市場に滞留ないしは流入している。(注)
注)誤解してはいけないことは、これは(強い金融引き締めが行われていない限
り)、貨幣市場や債券市場にマネーが滞留していることが原因で、財・サービ
ス市場で需要不足が発生しているのではないことだ。財・サービス市場で需要
不足が発生していることが原因で、貨幣・債券市場にマネーが滞留し、債券
価格が上昇(=金利が低下)しているのだ。
実は前者のように、財・サ市場の需要不足の原因が貨幣・債券市場にあると
理解している人が多い。しかし、そうではない。・・・長くなるので説明省略。
不況下で貨幣・債券市場にマネーが滞留し貨幣・債券に超過需要が生じているとき、そのマネーは、消費や設備投資には使われるあてのないマネーである。だからこそ、貨幣・債券市場に滞留しているのだからだ。
つまり、現在のような不況時に政府が国債を増発してこうしたマネーを吸収しても、(国債増発の規模が、財・サービス市場の需要不足の規模を上回らない限り)それによって、民間経済主体の支出予算が新たに制約され、消費や設備投資が抑制されることはない。
したがって、国債増発を原資とする財政出動に関して次の点が言える。
少なくとも、マクロ的中立命題(等価定理)のロジックでは、国債増発による民間資金の吸収で、それが民間の設備投資や消費を抑制することはない。そもそも、消費や設備投資に使われない資金が貨幣市場や債券市場に流入、滞留しており、国債はそれによって買われるからだ。
《参考》以上から、「財・サービス市場で需要不足が発生しており、その需要不足の規模を超えない範囲で国債増発が行われるなら」次のことが言える。
① クラウディングアウトは生じない。
クラウンディングアウトとは、財政出動のための国債増発が、国内の金利上昇を招き、それによって民間の設備投資資金の調達が困難になり、それが国内需要を低下させ、財政出動の効果を相殺することを言う。
しかし、不況のために国内の使われない資金が潤沢であるため、国債増発による民間資金吸収は金利の上昇をもたらさない。このため、クラウディングアウトは生じない。
なお「New Economic Thinking6 クラウディング・アウトは不況下では生じない」 も参照。
② マンデル=フレミング・モデルによる財政出動の無効化は生じない。
マンデル=フレミング・モデルでは、(為替レートの変動相場制下の小国という条件下で)、政府が財政出動を行うために国債を増発すると、国内の資金に不足が生じて海外資金が流入する。海外資金の流入には、海外通貨を自国通貨に換える必要がある。このため、海外通貨売り・自国通貨買いが生じ、それによって為替レートが自国通貨高となって輸出が減少する。このため、輸出の減少による外需の減少が財政出動による内需の増加を相殺してしまう結果となる。
しかし、国債を増発しても、上記のように国内の資金が不足することはないため、海外資金が流入することはなく、 こうした効果は発生しない。
なお、「New Economic Thinking5 マンデル=フレミング・モデルは不況下では機能しない」参照。
不況下では「国債増発」と「増税」は等価ではなくなる
以上のように、不況下つまりセイ法則が成立していない状況下で「財・サービス市場で需要不足が発生しており、その需要不足の規模を超えない範囲で国債増発が行われれる限り」、その国債を購入する民間資金は、消費や設備投資に使われる予定のない資金である。したがって、不況下での国債の増発は、民間の消費や設備投資に対する新たな予算制約を生じさせない。つまり、不況下での国債発行は、消費や設備投資を抑制しない。
「不況下で発生した消費や設備投資に使われない資金」を政府が国債を発行して吸い上げ、政府の消費や公共投資として、財・サービス需要を創出している(=財政出動)。これは、政府が吸収しなければ、消費や設備投資として使われない資金なのである。
一方。これに対して、増税は、課税対象などの制度設計にもよるが、一般に、民間の消費や設備投資資金としての使用を予定している資金にも一律に課税される。これは、民間の消費や設備投資を抑制する。 なお、政府が増税額と同額を公共投資や政府消費で支出(増加)すれば、再び、資金は民間に還流し、民間で減少した増税による消費や設備投資の減少と同規模の需要を政府が創り出すことになる。
ただし、増税が、財政再建のために使われてしまえば(財政再建とは、政府支出の増加分が増税による収入の増加額分より小さいということなので、その差額分の)資金は、財・サービス需要を創り出さず、増税分の需要への負の影響は残ってしまう。
実際、2014年の8%への消費増税は、社会保障費に使う目的を名目に行われたが、現実には、増税等による政府歳入の増加分の一定割合は、社会保障費の増額には充てられず、実質的に財政再建のために、つまり政府債務の削減のために使われた。これ自体は、国債の償還の増加となって、民間に還流したが、それは元々(民間に資金需要がないために)、消費や設備投資に使われる見込みのない資金であり、実際に消費や設備投資の増加には寄与しなかった。
リカード等価定理が根拠としていたメカニズムによれば、財政再建が進んだことで、家計や企業の将来の増税見通しは低下したはずであり、消費や設備投資は増加するはずだったが、そうした効果はなかったように見える。この消費増税で(それを実験とみなせば)、リカードやバローの見方は否定されたとみなせると考える。・・・少なくとも、彼らの主張は証明されなかった。このことは、これまで、一見、リカード等価定理を証明していたかに見えていた過去の実証結果は、マクロ的等価定理によるものであったことを示すと考える。すくなくともそのことは否定されなかった。
・・・以上の「国債増発」と「増税」を比較すれば明らかなように、「不況下では税と国債は等価ではなくなる」と言えると考える。
最後に
なお、こうしたメカニズムと整合的な「経済の体系的な理解に関する新しい提案」を行っているのが、
拙「New Economic Thinking2 資金循環とワルラス法則を基盤とする新たな体系」や「New Economic Thinking 10 マネーの二つの側面からみた日本国債のパラドックス」
などであり、こうしたメカニズムの背景にある資金の流れをわかりやすく説明したのが、少し長いが「New Economic Thinking11 需要不足・巨額国債発行と貨幣の循環~セイ法則不成立のとき何が起きているか」である。